1944年4月4日に鹿児島県に生まれました。高校まで過ごした九州よりも、神戸の方が長いのですが、それでも自分が九州の男だとつくづく感じます。

7人兄弟の末っ子です。

父は国家公務員(営林署)だったので、父の異動に伴ってすぐに鹿児島から宮崎に移り、高校まで宮崎で過ごしました。

父の正繁(明治31年11月19日生まれ、昭和63年1月8日に90歳で死亡)は寡黙で、子供にとっては峻厳な山のような人でした。

父がもし青春を東京でもすごしていたら、一介の官僚で終わることなく、文名を挙げていただろうと思われるような、日常の挙動に文才を感じさせる人でした。

一緒に生活していると、たとえ1冊の本を出していなくても、そのように考えさせてしまう人がいるものですね。

わたしの兄は理系の人ですが、数冊の専門書を出していますし、子供に物書きの血筋が出たと思うことがあります。

どうやらおれは一冊の本も書かなかった親父を抜かずに死にそうだ、という思いは、年ごとに強くなります。

母のマサエ(明治34年1月9日生まれ、平成5年11月27日に93歳で死亡)は、わたしをとって最愛の人でした。

もしわたしに人に愛されるようなものがあるとすれば、それは母から受け継いだものにちがいありません。

母の晩年に、わたしは宮崎から遠く神戸にいて、寂しい思いをさせたことが、後悔の種です。母はわたしの小さい頃に、「この子は正直な子」とよくいってくれました。

長じてわたしは様々な機会に少数派になることが多かったのですが、そんな辛いときに、よく母のこのことばを思いだします。

母は、自分のことを信じていてくれた、という記憶が、この歳になっても強い励ましになることがあります。

立命館大学の大学院時代に書いた歴史小説「助け舟」が第1回末川文学賞を受賞しました。

選者は梅原猛、高橋和己、真継伸彦の3人でした。

梅原猛のことは皆さんご存知でしょう。しかしわたしの青春時代は、高橋和己、真継伸彦のほうが有名で、かつ時代の青春に多大の影響を与えていました。

とりわけ高橋和己は、大江健三郎や三島由紀夫と並ぶ、あるいはそれ以上の影響を青春に与えている人気作家だったのです。

受賞直後に立命館大学がバリケード封鎖され、立命館の全共闘運動が始まりました。

民青の諸君が大学の新聞社をとったことから、この末川文学賞もなくなりました。

今はどうなっているのか知りません(現在の立命館大学の学生諸君は、この賞の存在自体を知らないにちがいない)が、わたしが最初の、そして最後の受賞者なのだと思います。

全共闘運動のなかでわたしが何を考えたかは、「霙の降る情景」以降の連作「全共闘記」を読んでもらうのが一番いいと思います。

わたしは処女作で末川文学賞をとり、第2作で芥川賞をとるつもりでした。それで第2作の「霙の降る情景」は『文學界』新人賞に応募し、実際、中間発表に残ったのですが、それを知った立命全共闘の書記長から、

「もう賞はいいから。それより発表することだ」

と婉曲にたしなめられ、そういえば全共闘を書きながら賞を求めるのはヘンなことだと思い、その後は寄稿者に原稿料も払わない吉本隆明の『試行』の姿勢が気に入って、『試行』で作品を発表していくことになります。

全共闘に影響を受けた青春は、大学を出ると同時に生き方を変えて、世の中に迎合して生きた、といったニュアンスの発言を、当時の大学教師がしています。

かれらは警察権力を呼んで教え子を大学から追放した過去を正当化したいのです。しかし、かれらに大学を追われた後も、全共闘は個人の生き様のなかに、様々なかたちで立派に生き続けたのです。テレビに出たり、本を出すことだけが、人生の表現のすべてではありませんからね。

大学院闘争委員会のレポート提出拒否闘争に賛成して大学院を中退した後、東京の中学校を振り出しに、神戸で高校教師をやりました。国語の教師でした。

こう書いてきて、全共闘を書いていることから随分恐い人間と誤解されそうです。確かに若い頃は随分と恐かったらしい。(わたしのつれあいの声、そして同僚の声)。

そういえばこんなエピソードを思い出しました。ある高校で、定年間際の校長が校長室に鍵をかけて立てこもった。どうしたのだろう、と不思議に思っていたのですが、後で聞くと、わたしが恐くて校長室に鍵をかけたらしいのです。

「組合より兵頭先生が恐い」といっていたらしい。

いじめたのかというと、そんなことはまったくありません。

この校長は定年の年に県から大きな賞をもらいました。その賞がもらえたのは、わたしのお陰だと先輩の複数の先生方から聞かされました。感謝されるべきが、そこを通り越して恐がられたわけです。

今でも校長室の鍵のかかったドアを思い出し、吹き出すことがあります。

それからこんなこともありました。これは違う高校での話なのですが、30代のあるとき、神戸の坂道を友達と3人で降りていました。すると前方からこちらに向かっていたひとりの、50代の紳士が、パッと横に飛び、電柱に隠れました。

わたしは誰かわからなかったのですが、文字通り横に飛んだのです。横を歩いていた友人が「校長や」と呟きました。

街で偶然会ったからといって、何も電柱に隠れることはあるまい、と思ったのですが、ともかくその電柱の横を過ぎるとき、わたしは見ないようにしていました。友人はじろじろと見て、鼻で笑っていましたが。

これも思い出すたびに吹き出す話です。

これもいじめたのではないのですよ。この校長が定年を迎えたとき、誰も送別会を開かないなかで、わたしと何人かの友人が、送別の宴を開いてあげたほどです。

もっとも途中で、校長は、わたしたちのかけ声に合わせて踊っている途中で、緊張のあまり、後ろに倒れ、ふすまに頭をぶつけていましたが。

現在は、もう怖がられることもないのだと思います。

年相応にまるくなった、と自分でも思います。(なってしまった、というべきか)。現在は、末っ子の娘とインコの世話をするのが楽しい、そしてたまさか意味もなく娘とジャンケンをしては笑い興じる、どこにでもいる、普通のおじさんです。

補記

最後に、自分の思想的立場を述べておきます。

わたしは左翼ではありません。

また、右翼でもありません。

わたしが、みずから左翼だといえば、皆さんは分かりやすいのだと思いますが、1960年代の中葉(つまり全共闘運動の前)に、すでにイデオロギーの終焉は哲学や思想の領域では世界的に語られていまして、それが政治の領域でベルリンの壁の崩壊やソ連圏の崩壊として具体化していったのです。

左翼か右翼かというイデオロギー的な区分は、すでに意味をもたない区分です。

たとえば小沢一郎という存在があります。かれは左翼でも右翼でもありません。

保守の体制から出た政治家でありながら、そこらの左翼や右翼より恐がられ、警戒され、絶えざる「人物破壊」のターゲットにされています。それはかれが既得権益支配層と激しく対立し、その既得権益を国民に返そうとするからなのです。

この国の「記者クラブ」メディアがいかに国を不幸にする存在であるか、国民にとって災いの存在であるかを、わたしはかれの考察を通じて学びました。

いずれにしても右翼か左翼かという分水嶺は意味をもたないものです。体制から出た小沢は革命的ですし、現在のほとんどの組合は守旧派の牙城です。

わたしが学生時代にもっとも熱心に読み、影響を受けたのは、ニーチェの哲学でしたし、『聖書』でした。そして(日本文学を専攻しましたので)卒論に選んだのは芥川龍之介と太宰治でした。

マルクスやレーニン、毛沢東などの著作もたくさん読んでおりますが、三島由紀夫や安田輿重郎の著作も、その文体に憧れて読みました。

今どき、まだイデオロギーを持ち出して、相手を決めつけるような論を展開している年配の御用評論家やコメンテーターがいますが、ロシアの政治や、中国の政治も、とりわけ北朝鮮の政治は、まったくこの二分法では理解できないと思います。

また、親米か親中かに単純に区分けして、ことたれりとしている御用評論家やコメンテーターがいます。これはメディアで生き残る当人たちの商売には切実な分水嶺なのでしょう。しかし、誰もが商売や保身で表現を生きているわけではありません。

ありていにいえば、わたしは、合理的なもの、論理的なもの、正直で深さを持つもの、強さと優しさを併せもつ世界への嗜好が強い人間です。

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