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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

2007年03月05日
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カテゴリ:西アジア・トルコ
(引用開始)
<カダフィ大佐>核放棄後の対応で国際社会に不満
3月3日17時36分配信 毎日新聞

 【カイロ支局】リビアの最高指導者、カダフィ大佐は2日、同国の「直接民主制」を祝う式典が開かれた南西部サブハで英BBC放送と会見し、「リビアが戦争計画を断念すれば、米英両国は、核の平和利用を支援すると約束した。だが、実際は何もしてくれなかった」と語った。(中略)
 さらに「核開発計画を放棄したリビアに何の補償もなかったのだから、北朝鮮やイランのような国々は、リビアの例にならうつもりはないと言うだろう」とも述べた。
 リビアが03年に核開発の放棄を表明して以降、国連と米国はリビアに対する経済制裁を解除。欧米各国はリビアとの外交関係を修復した。さらに、米国はリビアに対する「テロ支援国」指定も解除した。しかし、大佐は、リビアの原子力発電所建設に対する欧米諸国の協力が進まないことへのいら立ちを示したようだ。
(引用終了)


 リビアというと、一昔前のアメリカ映画ではテロリストの親玉として描かれていた。イスラム過激派がその地位に代わって久しいが、日本人には未だあまり好印象はないだろう。
 だいぶ前の語学修行の時のリビア人の知り合いは、こうしたリビアのイメージに反して明るく知的で、自国の内政や教育制度を賞賛していたのを覚えている。リビアの石油施設に出稼ぎに行ったというトルコ人に会うことも多い。

 現在のリビアの正式国名は「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ」と訳される。アラビア語でジャマーヒリーヤは共和制の意だが、あえてそう訳さないのはこの国独特の政治体制にある。この名前の示すところは、イスラムに基づく社会主義・民族主義を国是とした直接民主主義による人民主権の実現とのことだが、2000年に中央議会が解散、地方議会や人民委員会に立法権や行政権を委譲している。
 この国の指導者といえばムアンマル・アル・カダフィだが、1969年にクーデタで王政を倒して以来、実質的に国家指導者の地位にある。ただし彼自身は1979年に全ての公職を辞して「革命指導者」を名乗り、法的な元首は別にいる。カダフィは虚飾を嫌い、砂漠遊牧民の暮らしを好んでテントに起居しているという。その彼も後継者には自分の息子を考えているようだ。
 
 リビアは面積は176万平方キロ(日本の4.6倍)もあるが、人口は日本の20分の1の560万人(兵庫県と同程度)しかない。これは国土の多くがリビア砂漠やサハラ砂漠に覆われ可耕地がわずか2.5%しかなく、雨の時のみに水が流れる涸れ川(ワディ)ばかりで川が一本もないことによる。
 人口はこの30年で倍以上に増え増加率は年3%以上で、人口の半分が16歳以下という「若い」国である。人口の8割以上は狭いながらも肥沃な海岸部に集中するが、砂漠にも遊牧民が暮らしている。国民の大部分はアラブ人だが、遊牧民であるベルベル人などもいる。国民の97%はイスラム教徒(スンニ派)で、棄教することはほぼ国籍放棄を意味する。
 砂漠ばかりの土地柄ではあるが、この国の地中には石油や天然ガスが豊富に埋蔵され、石油は日産160万バレルに上りイタリアやドイツに輸出している。この地下資源で得られる富のおかげでリビアはアフリカで最も豊かな国であり(一人当たりGDP4120ドル)、教育費などは無料という。
 リビアは地中海南岸・アフリカ大陸北端にある国だが、東でエジプト及びスーダン、南でチャドとニジェール、西でチュニジア及びアルジェリアと接している。地中海を挟んだ対岸はマルタやイタリア、ギリシャであり、これらの国々とも海を越えた歴史的関係があった。
 「リビア」という地名はそもそもエジプト西方の砂漠地帯を指していたが、古代ギリシャ人にとってはアフリカ大陸全体を示す言葉だった。この古代名が復活するのは、イタリアの植民地だった1934年になってからである。リビア国内ではエジプトに近い北東部のバルカ(キュレナイカ)、北西部のトリポリタニア、そして内陸のサハラ砂漠内にあたるフェザンといった地方がある。

 今は果てしない砂の海となっているサハラ砂漠は、かつては緑に覆われ水の豊かな地域だった。それを示すのはリビア南西部アカクス山中に残る紀元前9000年頃に描かれた岩壁画で、顔料や線刻でキリンなどが描かれている。紀元前6000年頃には牛の牧畜が行われていたことも壁画から分かる。
 しかし紀元前3000年頃からサハラ地域の乾燥化が始まった。画題は人間が主になるが、彼らも東のナイル河や南のニジェール川流域に移住を強いられた。さらに紀元前1000年以降は壁画(ギリシャ式の馬車が画題)を描くことさえ激減し、ラクダに乗る遊牧民が行き交うだけとなった。
 砂漠を越えて来るリビアの遊牧民は、ナイル河沿いに栄えた古代エジプト文明にとってしばしば脅威となった。早くも紀元前2300年頃にその記録があり、特に紀元前1200年頃、エジプト王(ファラオ)ラムセス3世は国境でリビア人を撃退したことを碑文に記している。リビア人は常に外敵だったわけではなく、エジプト文明に加わる者もあり、紀元前950年頃ファラオに即位したシェションク1世はリビア系傭兵の出自だった。

 紀元前7世紀、海路フェニキア人やギリシャ人が地中海岸に入植するようになる。キュレナイカにはキュレネ、バルカなどのギリシャ人都市が、トリポリタニアにはレプティス・マグナやサブラタなどのフェニキア人都市が建設された。特にキュレナイカはギリシャ本土への重要な穀物供給地となる。
 トリポリタニアはフェニキア人都市国家カルタゴの、そしてキュレナイカは紀元前4世紀末にエジプトのプトレマイオス朝の支配下に入ったが、それぞれ紀元前146年、紀元前30年にローマ帝国に滅ぼされ、リビア全域がローマ帝国の版図に組み込まれた。ただし内陸のフェザンにいるベルベル人にはローマ帝国の威信は及ばなかった。
 やがてローマ帝国は衰退期に入り、395年に東西分裂する。キュレナイカは東ローマ(ビザンツ)帝国の、トリポリタニアはゲルマン系のヴァンダル族の占める所となった(429年)。ヴァンダル族やベルベル人の略奪でリビアの諸都市は衰退した。
 6世紀後半にはビザンツ帝国が地中海全域に版図を拡大しローマ帝国復活を思わせたが、アラブ人のイスラム教徒軍に攻撃され衰えた。アラブ軍は643年にキュレナイカ、647年にトリポリタニアを征服、さらに670年までに内陸のベルベル人をも屈服させ、以後リビア住民のイスラム化・アラブ化が進むことになる。

 その後リビアはエジプトや北西アフリカのイスラム王朝の支配するところとなった。1146年にはシチリアのキリスト教徒軍がトリポリを攻撃している。リビアの住民の多くはアラブ系やベルベル系遊牧民であり、彼らはアフリカ内陸部と地中海との間での黒人奴隷や象牙、砂金の交易や、イスラム教の拡大を担った。海岸部は14世紀以降、コルスと呼ばれる海賊の巣窟となった。
 地中海交易に依存するイタリアの都市国家やスペインはこの海賊に悩まされる。1509年、スペインは海賊鎮圧のためトリポリを攻略し、マルタ島のヨハネ騎士団に与えた。対抗するようにトルコのオスマン帝国も1517年にエジプトを征服してリビアの土侯を服属させ、1551年にトリポリを奪取して総督を置いた。こうしてオスマン帝国は三大陸にまたがる大帝国となった。
 オスマン帝国の支配が緩んだ1711年、アフマド・カラマンルが総督を倒し自立する。カラマンル朝も地中海での海賊行為を続けたが、イギリスやフランス、それに新国家アメリカはこれを許さずリビアを攻撃した(米軍による初の海外戦闘)。海賊は覆滅され、重要な経済基盤を失ったカラマンル朝は1835年にオスマン帝国に再征服される。
 一方1843年に設立されたイスラム教のセヌッシ教団は、オスマン帝国支配下のリビアで隠然たる勢力を持ち、反西洋運動の急先鋒となっていった。

 1861年に国内統一を果たしたイタリアは、遅ればせながら西欧列強による世界分割に加わった。オスマン帝国の弱体化や、列強によるモロッコ紛争を見たイタリアは、地中海対岸のリビアを狙って1911年にオスマン帝国に戦争を仕掛けた。イタリアは史上初めて航空機を戦争に使用して勝利し、翌年の講和でリビアを獲得した。
 しかし内陸を拠点とするセヌッシ教団の抵抗は根強く、特にキュレナイカを拠点とするオマル・ムフタルはイタリアを悩ませた。イタリアのファシスト政権は抵抗を徹底的に弾圧し、1931年にオマルを捕らえて処刑、ようやく鎮圧できた。リビアにはイタリア人10万人が入植した。
 第二次世界大戦でイタリアは地中海で連合国側のイギリスと激しく戦った。劣弱なイタリア軍はドイツ・アフリカ軍団の加勢を得たが、物量に勝るイギリスやアメリカには勝てず、1943年までに北アフリカから一掃された。
 リビアは暫くイギリスの軍政下に置かれたが、国連決議に従い1951年にセヌッシ教団の指導者イドリースを国王とするリビア王国が建国される。1953年にはアラブ連合に加わった。だがリビアには従来通り英米軍が駐留していた。

 ほとんど産業のないリビアは世界の最貧国の一つだったが、1958年に最初の油田が発見され、1961年に生産・輸出が始まった。しかし油田開発は英米企業に任され、富は一部の国民に独占された。その富裕層は欧米文化に傾倒し、国民の不満が高まった。
 1969年、国王の外遊中にカダフィ大尉率いる将校団がクーデタを起こし、共和制が樹立された。エジプトのナセル大統領が主唱する汎アラブ主義の影響であり、増大する貧富の差や欧米文化の流入に対する反応でもある。翌年カダフィはイタリア植民者をリビアから追放し、英米軍を撤収させソ連に接近、外国企業が所有する油田や銀行を全て国有化した。
 しかしカダフィの抱いたアラブ統一の理想は実現しなかった。その本家であるエジプトとの連合協議は失敗し、国境紛争すら起きる。その後もアラブ連合のチュニジアやモロッコと連合条約を結ぶが、リビアが外国人労働者を追放した1985年には一時チュニジアとの外交関係が断絶した。
 一方南隣のチャドとは1973年の国境紛争を始めに戦闘を繰り返し、チャド内戦中にはその北部を占領した。1989年に和平条約を結び撤退、1994年にハーグ国際法廷がリビアを非とすると、国境係争地からも撤退した。

 リビアは1980年代に反米・反イスラエル組織を支援し、欧米諸国との関係が急速に悪化する。1985年にベルリンで起きた爆弾テロ事件に関与したとして、翌年アメリカはリビアに対し経済制裁を開始、さらにカダフィ殺害を狙ってトリポリを空襲した。1988年にはイギリス上空でパンナム航空機が爆破される事件が起き、これもリビアが関与したとされた。
 ソ連崩壊や湾岸戦争後の1992年、アメリカはパンナム機事件への関与を理由に国連安保理で対リビア制裁を発議した。後ろ盾を失い、またイラクを支持して孤立していたリビアはその議決を座視するよりなかった。石油輸出を制限されたリビア経済は苦境に陥り、カダフィは1994年にイスラム法を導入して体制の引き締めを図った。
 1999年、リビアは孤立回避のため方向転換してパンナム機事件の容疑者をハーグ国際法廷に引渡し、国連は制裁を停止した。またイスラム過激派による欧米人誘拐事件の解決を仲介、さらに2001年にアメリカ同時多発テロの犯人を非難するなど(台頭する国内のイスラム原理主義組織への牽制でもある)、欧米への歩み寄り姿勢を明確にした。
 イラク戦争があった2003年に国連の制裁を解除され、また米英両国との秘密交渉の結果、リビアは大量破壊兵器計画の廃棄を発表した。核実験停止条約を批准したことを受け、アメリカも経済制裁やテロ支援国家指定を解除、国交正常化した。
 制裁を解除され経済開放に転じたリビアに対し、EU諸国が投資を行っており(日本企業も石油採掘権を落札)、原油高も手伝ってリビアは高成長を維持しており、またEUはアフリカからの不法移民対策での協力を模索している。一方で昨年12月のブルガリア人看護婦に対する死刑判決など、司法の不備や言論の制限といった人権状況を欧米諸国に批判されている。






最終更新日  2007年03月08日 16時28分59秒
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