ドイツ連邦議会の総選挙が終わってからそろそろ3週間、大敗したメルケル首相に対する評価が、もう一つ定まらない。
実は、すでに選挙前から、国民の間ではメルケル政権への批判はかなり高まっていた。しかし、批判しながらも、「首相はやっぱりメルケル」という歪んだ状況だ。批判の中枢にあったのは、もちろん、彼女が2015年に断行した「難民ようこそ政策」。
当時、100万人近く入った難民の多くは、過疎の町村に割り当てられた。都会にはもう住居がない。そして2年後の今、ドイツのあちこちで、異なった文化圏から来た、ドイツ語のできない若い男性が大勢、自由に動き回っている。最初のころ言われていたドイツ語の習得、就職などは緒にも付かない。
ただ、CDU(キリスト教民主同盟)党員にしてみれば、党は今やメルケルがいなければ二進も三進も行かない。それほどメルケル依存は強まっている。あるいは、メルケル氏の権力が強大になっているというべきか。
だからこそ、難民のもたらしている問題はできるだけ矮小化して、CDUは皆でメルケルを押し立ててきた。難民政策の改革を謳うAfD(ドイツのための選択肢)支持者の多い旧東独地方については、「民主主義の未熟な地方」と切り捨てた。
しかし選挙が終わり、AfDは急伸し、国民の不満は旧東独地方だけではなく、あらゆるところではっきりと目に見えるようになってきた。
選挙直後、CDU党内でも、これまで抑えられていたメルケル批判がところどころで狼煙のように上がった。ただ、今のところ、その批判はまとまらず、多くはまだ水面下でブクブクいっているだけだ。
政治家たちは皆、メルケル批判で得るものと失うものを、必死で暗算しているに違いない。ひょっとすると、そのうち「クーデター」を起こそうと、密かに画策しているグループもあるかもしれない。
興味深いのは、メルケル首相がCDUの書記長だった1999年末、自ら「クーデター」を起こした経験があることだ。
当時、コール首相が過去の闇献金問題の発覚で窮地に陥っていた。しかし、コール氏はCDUの党首であり、党員たちは態度を決めかねてグズグズしていた。そのとき、メルケル氏は単独でコール批判の論文をフランクフルター・アルゲマイネ紙に寄稿した。この爆弾で、コール氏はあっという間にCDUの党首の座を退き、まもなくメルケル氏がその後釜となり、それが首相への華々しい出世階段となる。
しかもこの事件は、コール氏とメルケル氏の間にあった特別の関係を知ると、その凄さがひしひしとわかる。実はコール氏は、東西ドイツの統一直後、東ドイツ出身の、名もないメルケル氏の政治的才能をいち早く見抜き、重職に抜擢したいわばメルケル氏の大の恩人であった。コール氏無くして、今のメルケルは無い。
つまり、当時の彼女のコール弾劾は、CDUを救うための勇気ある決断ではあったものの、そこに付着した一抹の後味の悪さはどうしても拭い去れなかった。これが陰で「父親殺し」と呼ばれた所以だ。いずれにしても、メルケル氏に、機を見る才能が人一倍あることだけは確かだろう。