ふー💦
なんとか揉め事が一段落しそうな感じです。
ちょっと揉め事に心を奪われていた時間を振り返ってみたいと思います。
「殴られたら殴り返せ」と心の声がする
私が遭遇した揉め事というのは、ごくごく簡単にいうと、相手方にウソをつかれたってことなんだよね😫
当初していた約束を反故にされたわけです。まさか約束を反故にされるとは思っていなかったので、相手との話し合いのもようを録音していたわけでもないし、書面で交わして確認をしたわけでもなかった。
で、約束を反故にされた私は
「ウソつきは死すべし!目には目を!歯には歯を!殴られたんだから殴り返せ!!」
という気持ちに縛られてしまった。
同時に襲いかかる自己嫌悪
相手をぶん殴ってやりたいと思う反面、「相手に舐められる私が悪い」「私にも隙きがあった」「私のふてぶてしい態度が、相手がウソをついてまで私を追い詰めようとする原因なんだ」という自己嫌悪に襲われていた😫
いやあ、久しぶりにキツかったねー。人生最大級の憎しみと自己嫌悪が同時に襲ってくるのだからね。
この世の中は公平なはずだという私の思い込み
「ウソつきは死すべし」「ウソをつかれた私が悪い」という思いがどこからくるかというと、「この世の中は公平なはずだ」という私の頭のなかにある世界観から来ているのだと思う。
本来、この世の中は公平なのだ。だから、ウソをつくような、不公平な奴らは、罰せられて当然なのだ、という世界観ね。
一方で、善良な私でもウソをつかれてしまうことを認めると、世の中が公平だとは思えなくなる。そこで私は、私に落ち度があったので自業自得なのだと思うことによって、私の頭のなかにある公平な世界を維持することができるわけですよ。
私自身を悪者にしてまでも守りたい世界観ってすごくないですか?💦
というわけで、憎しみと自己嫌悪の根っこは同じで、それは「この世界は公平なはずだ」という思い込みなのだろう。
こういう世界観のことを「世界公平仮説」と呼ぶらしい。
公平ではない現実世界
しかし、現実世界は公平ではないのだ。何の落ち度もないのに、事故や災害や亡くなるひとなどゴマンといる。ブラック企業がそこかしこに存在するように、悪がのさばっている例など、そこかしこにある。
勧善懲悪という世界であってほしい気持ちはわかるけれども、そもそも善とは何か?悪とは何か?私は完全なる善だと言えるのか?と、考えれば考えるほど、確かなことが言えなくなってくる。
おそらく現実世界というのは、そんなシンプルなものではない。誰が見ても普遍的な善と言うものはないし、同じように普遍的な悪もない。のさばる悪もあれば、成敗される悪もある。個々の拝見や事情、環境があって、「勧善懲悪」などと一言で言えるような単純なものではないというのがこの世界なのだと思う。
その現実を無視して、「ウソつきは死すべし」「ウソをつかれた私が悪い」と反射的に考えてしまうのは私の悪い癖であり、おそらく「相手方が本当にウソをついたのかどうなのかは闇の中だし、仮にそれがウソであっても、ウソつきが成敗されるか、私が先にくたばるかは、誰もわからない」というのが、より現実的に世界を捕らえているのだろう。
自分のみたい世界を見るのではなく、ありのままの世界でよしとする
まあ長年「ウソつきは死すべし」と思って生きてきたので、簡単にその思い込みを捨てることができるとは思わないけれども、私の信じている世界がどうやら現実的ではないと知っておくことも必要なのかもしれない。精神衛生上ね。
自分のみたい世界を見るのではなく、ありのままの世界でよしとする。
できるかどうかはわからないけれども、もしできるのであれば、そっちのほうがはるかに楽そうだもんね😊
はいっ!もうこれでウジウジするのはもうおしまい!!