映画『ダンケルク』でも注目!史上最大の撤退作戦「ダンケルクの戦い」とは?

史上最大の撤退作戦とも言われるダンケルクの戦い。第二次世界大戦中、わずか9日間で30万を超えるイギリス兵が対ドイツ戦線から救出された。このダンケルクの戦いを、クリストファー・ノーラン監督が映画化し、今話題を呼んでいる。ダンケルクの戦いは、どのように引き起こされたのか。その政治的、軍事的背景に迫る。2017年9月14日放送TBSラジオ荻上チキ・Session22「映画『ダンケルク』でも注目!史上最大の撤退作戦『ダンケルクの戦い』とは?」より抄録。(構成/増田穂)

 

■ 荻上チキ・Session22とは

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誇り高い負け戦

 

荻上 本日のゲストをご紹介します。イギリス現代史がご専門の成城大学名誉教授、木畑洋一さんと、『ドイツ軍事史――その虚像と実像』などの著書がある現代史研究者の大木毅さんです。よろしくお願いいたします。

 

木畑・大木 よろしくお願いします。

 

荻上 今回映画になった「ダンケルクの戦い」ですが、イギリスではどのように受け止められているのでしょうか。

 

木畑 ダンケルクの戦いは、映画にも描かれているように、イギリス軍の壮大な撤退作戦でした。イギリスにとっては第二次世界大戦初期の負けを象徴する出来事だったと言えます。一方で、イギリス軍はこの負け戦である撤退作戦を非常にうまく行いました。民間船舶も大量に出動させ、数多くのイギリス人が大陸からの撤退に成功したのです。フランス軍兵士もまた救出しました。この出来事は多くのイギリス人が協力して成功させた、誇り高い勝利の物語にもなっているのです。

 

イギリスはその後ドイツ軍からの空襲にさらされますが、ダンケルクの成功がイギリス全体の連帯の象徴となり、彼らは攻撃を耐え抜きます。その精神はダンケルクスピリットと呼ばれました。そうした意味で、ダンケルクは負け戦でありながら、第二次世界大戦におけるイギリスの勝利への重要な段階と位置付けられていると思います。

 

荻上 ダンケルクに至るまでの背景にはどのようなストーリーがあったのでしょうか。

 

木畑 一般的に第二次世界大戦は1939年9月のナチスドイツのポーランド侵略を機に始まったとされています。この侵略に対し、イギリスやフランスがドイツに対して宣戦布告し、世界大戦になりました。

 

しかし、40年の4月、5月頃までは、「いかさま戦争」とか「奇妙な戦争」と言われ、戦闘らしい戦闘はほとんど起っていませんでした。ところがこの時期に、ナチスドイツが北欧とフランスに向けて軍事行動を起こします。これにより戦争が本格化しました。ダンケルクはちょうどこの頃の話、奇妙な戦争から本格的な戦争に変わってきた直後の話です。

 

荻上 ダンケルクは英仏海峡沿いのフランス北部の港ですが、そこでイギリス軍とドイツ軍が戦っていたと。

 

木畑 ダンケルクではイギリスとフランスがドイツと戦っていました。当時イギリスもフランスも広大な植民地を持っていましたので、例えばインドの兵隊など、帝国内の人々も動員されていましたが、基本的には、イギリス、フランスとドイツの間の戦いです。この頃はまだドイツとソ連との間には不可侵条約が締結されており、戦争はしていませんでしたので、当時の戦争はもっぱらヨーロッパの西のほうで戦われていたということになります。

 

荻上 ドイツはどうしてポーランドに侵攻し、戦線を拡大していったのでしょうか。

 

大木 英仏の介入を招き、世界大戦を引き起こしたポーランド侵略ですが、そもそもヒトラーは英仏と戦争をする気はありませんでした。それまでのヒトラーの動きとしては、最初に、ドイツ系国民の国家であるオーストリアを併合しました。そして同じくドイツ系住民が多く住んでいるチェコスロヴァキアのズデーテン地方を解放するという名目で、チェコスロバキアを解体します。そして今度はポーランドに侵攻、占領しようと思ったわけです

 

それまでドイツの動きを宥和的に見ていたイギリス、フランスですが、さすがに今度は黙っていませんでした。もしポーランドに攻め入ったならば参戦すると、ドイツに対して勧告をします。これを受けてヒトラーは、当初日本と同盟を組むことによって、英仏を牽制しようと試みます。英仏がドイツに対して攻撃をかければ、日本がアジアにある英仏の植民地を攻撃するぞ、という脅しをかけようとしたのです。

 

ところが、この交渉は日本側がなかなか、うんと言いません。そこでドイツは、イデオロギーからすれば不倶戴天の敵であるはずのソ連と手を結びました。独ソ不可侵条約です。今日では、これは不可侵条約だけでなく、東ヨーロッパを分割する秘密協定も含まれていたことがわかっています。

 

ヒトラーはソ連と条約を結べば、ナチスドイツがポーランドに侵攻してもイギリス・フランスは黙っているだろうと考えていました。しかし、1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻すると、2日後の9月3日には英仏がドイツに宣戦布告します。ヒトラーはその第一報を聞いて「これからどうなる?」と言ったそうです。英仏と戦争することを想定していなかったことが窺(うかが)えます。ヒトラーとしては、対ポーランドの戦争だけで限定できると思っていたのでしょう。

 

荻上 牽制のために結んだソ連との条約が、英仏にとってはそれほどの抑止にならなかったと。

 

大木 その通りです。

 

荻上 逆に、イギリス、フランスがここで宣戦を布告した背景には何があるのでしょうか。

 

木畑 1930年代、イギリスやフランスはドイツに対して宥和政策というかたちでその行動を認めていました。それによってドイツが行動を抑制するのではないかと期待していたのです。しかし、ポーランド侵攻でこの期待が完全に裏切られました。英仏としては、もうやらざるを得ない、という感じだったのだと思います。

 

一方で、9月1日にドイツがポーランドに侵攻して、実際にイギリスとフランスが宣戦布告するまでに2日間かかっています。宥和的政策の名残なのか、そこにはある種の逡巡があって、すぐには対応していないんです。本来は、39年3月にチェコスロバキアが解体された時点でヒトラーの約束が当てにならないことは、わかってきていました。英仏世論の中にも、戦争が仕方ないという雰囲気があったので、9月1日にすぐに宣戦してもおかしくはありません。にもかかわらず2日間の逡巡があったことは、重要ではないかと思っています。

 

 

英仏の裏をかく独軍

 

荻上 いよいよ事を構えることになったわけですが、ドイツ軍の準備はいかがだったのでしょうか。

 

大木 結果的にはドイツの大勝利でしたが、自信満々だったかといえばそんなことはありません。それまでドイツは無理に無理を重ねて軍備を拡張していました。ヒトラーはポーランドを征服後、すぐに西への侵攻作戦を実施したいと言ったのですが、軍人たちが止めています。

 

ドイツ軍の数を見ると大変強大な軍隊に見えます。事実、戦車や飛行機の数はありました。一方でそれを支える爆弾や砲弾の備蓄などが非常に浅かったんです。ドイツ軍によるポーランドの征服は1か月ほどで成し遂げられますが、ドイツ空軍はその時に爆弾の備蓄を使い果たしています。

 

事実、ポーランド征服後、ドイツはフランス・イギリスに和平を申し出ています。英仏としてはこれまでずっと宥和政策を裏切られ続けていて、もう信用ならんということで、この申し出は蹴られるのですが、こういった点から考えても、ドイツ側も積極的に戦争を望んでいたわけではないでしょうし、必ず勝てるという自信はなかったはずです。

 

荻上 そうした中でフランスに攻め入り、追い詰めていくわけですが、ドイツ軍はどのような作戦をとっていたのでしょうか。

 

大木 最初にドイツが考えたのは、ベルギーを通過して英仏海峡沿いに進み、ぐっと旋回して大陸にいる英仏連合軍を包囲するというものでした。これは第一次世界大戦時にドイツがとった作戦とほぼ同じです。当時は補給などの問題があり失敗に終わったのですが、第二次世界大戦においてその再現をしようとしたのです。今回は第一次世界大戦では避けたオランダへも侵略して、そこを突き進んでフランスに攻め入ろうと考えたわけです。

 

一方で、連合国もドイツのこの動きは予想していました。フランスとドイツの間には、第一次世界大戦以後建設された、マジノ線というフランスの大要塞がありました。ここを攻めても、ドイツ軍は大損害を受けるだけです。したがって、要塞線がなく突破しやすい中立国を抜けてくるだろうと読んでいたのです。

 

対策として連合国は、連合軍から見て左、ドイツ軍から見て右、英仏海峡寄りにイギリス遠征軍(British Expeditionary Force)とフランス軍の最精鋭の部隊を送り込んで守るということを考えていました。

 

しかしその英仏の読みの裏をかく人物が現れました。ドイツ国防軍最高の頭脳といわれているマンシュタインという人物です。マンシュタインはオランダ・ベルギー間ではなく、ベルギー南部のアルデンヌの森という大森林地帯に機甲部隊を集結して、ここを突き抜ける作戦を提案しました。この作戦をとると、ちょうど回転ドアのように、英仏海峡を連合軍が進み、その南をドイツ機甲部隊が進軍し、どんどん海峡沿いにオランダ・ベルギーに向かって進んでいく連合軍の南をかすめて、ドイツの機甲部隊がその背後に進出していく形になります。ドイツ機甲部隊はそのまま英仏海峡の港に行って、カレーやブローニュ、ダンケルクといった港を占領できる。そうするとイギリス遠征軍とフランスの最精鋭の部隊は補給を切られ、孤立し、殲滅されることになるだろう、というものでした。

 

しかしマンシュタインがいくら上申しても、陸軍の首脳部は聞いてくれませんでした。そこでマンシュタインはコネを使ってヒトラーとの朝食会を設けます。ベルリンで一緒に朝食をたべながら議論するというものです。1940年2月17日に実施されたこの朝食会で、マンシュタインは自身の作戦について、ヒトラーに直に提案します。ヒトラー自身も、第一次世界大戦の焼き直しのような作戦では失敗に終わるのではないかと不安を抱いていたものですから、マンシュタインの提案に賛成し、実行します。結果として連合軍の裏をかき、連合軍の大敗につながりました。

 

要は中央突破ですね。オランダ・ベルギーからフランス・ドイツ国境を通ってスイスに至る西部戦線真ん中の要塞のないところを抜けて、連合軍の最精鋭部隊を分断し、孤立させて全滅させる。そういう作戦です。その結果、イギリス遠征軍とフランス軍の一部は英仏海峡近くの地域に押し込められていって、万策尽きたイギリス軍としては唯一残った補給港であるダンケルクから海を通って撤退せざるを得なくなるわけです。【次ページにつづく】

 

 

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