だいぶ日があいてしまいましたが、ヒトラーの親戚関係の続きを書きます。
ヒトラーのイギリス贔屓は、母親の違う兄とその息子である甥がイギリスにいたことも関係あるか否か?・・・ないでしょう。
前々回載せた図をもう一度見てみます。ヒトラーの兄アロイス・Jrはイギリスでアイルランド人のブリジットと結婚。男児ウィリーが生まれますが、のちに母子を捨てドイツに移住し、ドイツ人と結婚(重婚罪!)して家庭を構えてしまいます。
アロイスがドイツを旅行中に第一次大戦が勃発したため、イギリスへの渡航が禁止されたという経緯はあるのですが。それにしても無責任ですね。
ドイツにはハインリヒという息子がいましたが、1942年ソ連で戦死(捕虜となり拷問死?)しました。
ウィリー(ウィリアム・パトリック・"ウィリー"・ヒトラー:William Patrick "Willy" Hitler、1911‐1987)は母親の手で育てられ、1929年彼が18歳になったとき初めてドイツの父の元を訪ねます。
1933年にも再訪。この時の目的は総統閣下である叔父から何らかの恩恵を受けて、儲かる仕事にありつけるのではと期待したようです。実は母国イギリスでは名前「ヒトラー」が災いして職につけず、貧しい暮らしをしていました。
ところが叔父のアドルフは、銀行の事務やオペル社の工場での仕事くらいしか斡旋してくれない。これに不満のウィリーはなんと叔父を脅迫するのです。ヒトラー一家の恥となる話を新聞社に売りつけると言って。(ヒトラーの父方にユダヤ系の血筋…という巷に広まっていた噂ですが、現在この説は否定されているようです)
ウィリーは図に乗ってヒトラーの山荘ベルヒテスガーデンまで押しかけることもありました。また1938年にはLook誌に「私はなぜ叔父が嫌いか」という記事を寄稿しました。↓
1939年になると母と共に渡米して講演会ツアーまでやります。これはアメリカの出版会の重鎮ウィリアム・ランドルフ・ハースト( 1863 - 1951年、映画『市民ケーン』のモデルと言われている)に誘われたからです。
・・・とまあこんなわけですから、ヒトラーの親英感情は親戚とはなんの関係もない。逆にヒトラーは甥をひどく嫌っていたそうです。
ここまできたらウィリーのその後の人生も気になりますね。
アメリカ海軍に入隊し、戦場へ
滞米中のその年に第二次大戦が勃発。ウィリーはルーズベルト大統領に手紙を書き、米軍への入隊を懇願します。FBIも彼の身元を調べあげ、問題なしということで1944年海軍に入隊。衛生兵 (combat medic)として勤務します。
志願兵事務所を訪れた際の、繰り返し語られるエピソードがあります。
ウィリーが自己紹介をすると、担当官はヒトラーという名前をジョークだと思ってこう返したということです。
"Glad to see you Hitler. My name's Hess."(お会いできて光栄です、ヒトラーさん。私はヘスです)
1947年 除隊
戦闘中の負傷により「名誉戦傷章」を受章したそうです。
このあとウィリーは改名します。ヒトラーという姓を捨て、その後スチュアート=ヒューストン(Stuart-Houston)として生きていく。改名により、アメリカの「ヒトラー」はいったん表舞台から姿を消しました。
私は記憶をたどってみるのですが、学生時代ドイツ人の戦争体験者に聞いたことがあるのです。ヒトラーの親戚ってまだどこかにいるんでしょうか?
すると
ードイツやオーストリア、それからアメリカにもいるよ。でも名前を変えたって聞いたけどな。
ドイツ人はいろいろな情報源から何かしら知っているんだなと思ったものです。
ここでジャーナリストのガードナー(David Gardner)氏の登場です。1995年ころニューヨーク勤務だったガードナー氏は、「ヒトラーの甥」はどこにいるのだろうと疑問を持ちます。昔の新聞記事や電話帳を頼りに4年かかってついにファミリーの居場所をつきとめ、訪問しました。
The Last of the Hitlers: The Story of Adolf Hitler's British Nephew and the Amazing Pact to Make Sure His Genes Die Out Hardcover – December 8, 2001 by David Gardner (Author)
ウィリーは14歳年下のドイツ人の女性と結婚し、四人の息子をもうけ、ニューヨークでひっそりと暮らしていました。姓はスチュアート=ヒューストンですからヒトラーとのつながりなんか全くわからないはずです。子どもたちもどこにでもいるごく普通のアメリカ人として育てられました。近所の人の証言もたくさんあります。
ウィリーは1987年に死去。三男は特別捜査官でしたが若くして事故死。↓
ガードナー氏が訪ねたときは未亡人フィリスと三人の息子たちが健在でした。三人ともも結婚しておらず、「子孫を残さないため」の取り決めがあったという話も…。
ガードナー氏が「50年間で初めての訪問者だった」のですが、その後ファミリーは事あるごとに「ヒトラー」の名前を持ち出す多くの訪問者のせいで、静かな生活は望めなくなりました。お気の毒なことです。放っておいてあげればいいのに。
参考・写真など:
William Hitler, Nephew of Adolf, Joined the US Navy to Fight The Nazis in WW2
The black sheep of the family? The rise and fall of Hitler's scouse nephew | The Independent
79年前のウィリーの日記がひょっこり
それから10年以上もたった2014年のことです。ドイツ時代にウィリーが書きつけていたポケットサイズの手帳が突然見つかります。リフォームするため壊していた家の屋根裏から。ゴミと埃の堆積物の中から。
それはウィリーの母ブリジットが亡くなる1969年まで住んでいた家でした。
表紙にはドイツ語で「国家社会主義者たちよ!」と書かれていました。何かのジョークか下手な小説を読んでいるみたいなんですが、私は正直吹き出しました。
長男のアレックスも、なぜ残していったのだろうと不思議がります。あんなにヒトラーとのリンクを消し去ろうと躍起だったはずなのに。
しかし私はちょっと疑問を感じています。たとえば長男アレックスですが、本当の名前は Alexander Adolf というのです。わざわざAdolf とつけるなんて。
さらに姓の方も気になります。"Stuart-Houston"?あれ、どこかで聞いたような…。
そうです、ヒューストン・ステュアート・チェンバレン(Houston Stewart Chamberlain 1855- 1927年)を連想してしまいます。人種的反ユダヤ主義の教祖様のような人で、著書は当時のヨーロッパで広く読まれ、ヒトラーにも多大な影響を与えました。ヴィルヘルム2世にも招待され、宮廷に泊まったこともあるという人です。ドイツ大好きでドイツ語に堪能でドイツに帰化しました。
兄はかの高名な日本研究家のバジル・ホール・チェンバレンで、東京帝国大学文学部で教鞭をとり、こちらも長く日本で暮らしました。評価は分かれるにせよ、俳句を最初に翻訳した人でもあります。
参考:
今日もありがとうございました。