2017年度のアカデミー賞で、作品賞、脚色賞、助演女優賞の3部門にノミネートされた話題作が『ドリーム』である。舞台は1960年代初頭のアメリカ。NASAに勤務する3人の黒人女性が主人公だ。数学、エンジニアなど専門分野は異なるが、それぞれに一流の頭脳を持った女性たちは、当時ソ連とのあいだで競争が加熱していた有人宇宙飛行計画のために働くこととなる。これまで培ってきた実力を発揮すべく、仕事のチャンスをうかがう3人であったが、現代とは比較にならないほど根強い人種差別、女性蔑視の壁に阻まれておもうように活躍できずにいた。公民権運動で激しく揺れ動くアメリカ社会と3人の女性を重ねながら、物語はNASAが初めて挑戦する地球周回軌道飛行という劇的なクライマックスへとたどり着く。
日本での公開時、当初は『ドリーム 私たちのアポロ計画』という邦題が予定されていたが、作品がアポロ計画を直接的には描いていなかったため批判が起こり、急遽タイトルを『ドリーム』に訂正したことも記憶に新しい。監督は、『ヴィンセントが教えてくれたこと』(’14)で知られるセオドア・メルフィ。
1950年代半ばから始まった公民権運動が、1963年に行われたワシントン大行進によってその頂点へと達したという歴史的事実を、われわれは学んでいる。黒人がみずからの権利獲得のために立ち上がった時代。人種隔離主義が当然とされ、公共の場所が白人用と黒人用に分けられる理不尽を終わらせるための闘争。公民権運動にまつわる事実を、本などを通じてそれなりに知っていたはずの観客も、あらためて映像として提示されたとき、そのあからさまな差別の実態に驚くほかない。
『ドリーム』がすぐれているのは、1960年代に社会が内包していた差別の実情、特定の人種へ強いていた抑圧を伝える描写のリアリティである。この映画で人種差別は、日常のごく自然なふるまいの一部として習慣化している。ゆえにその非倫理性は際立つのだ。白人は、日ごろから悪意を激しく剥き出しにして黒人を蔑視していたわけではなかった。日々のルーティンとして、そして疑うまでもない前提として、差別はそこにあったのだ。差別が日常化、ルーティン化してしまい、白人は自分たちが差別に加担していることすら自覚できないのかもしれない。ゆえに問題は根深いのである。
劇中、バスの座席には「有色人種用」と書かれ、NASAのオフィスは人種別に部屋が分けられている。また、映画に登場するキルスティン・ダンスト演じる白人女性ヴィヴィアンがそうであるように、かかる分離主義的なルールを自然に受け入れた者は、これといった懐疑や逡巡もないまま差別に加担できた。ヴィヴィアンには、自分が差別主義者であるという自覚がない。差別に加担しても罪悪感を覚えずに済む社会とは、何と絶望的であることか。『ドリーム』は、かつての社会がいかに残酷であったかを、さりげない描写の積み重ねによって伝えることに成功している。
冒頭、出勤途中でエンジンが動かなくなった車と、路上で途方に暮れる3人の黒人女性が映される場面。職場のNASAまで到着できずに立ち往生する女性は、まさにアメリカ社会のメタファーである。彼女らは優秀であるにもかかわらず、社会へ参加することを拒まれているのだ。食事、トイレは白人と隔離され、仕事の努力も認められない女性たち。かかる逆境に置かれた女性が、有人宇宙飛行計画の成功には自分の力が必要だと数学の実力を持って相手に認めさせ、悪しき慣習をねじ伏せていく。その過程の痛快さには、快哉を叫ぶほかないだろう。
数学の天才キャサリンが、白人男性の注目するなか、黒板に複雑な数式を次々と書いていく場面のスリルはどうか。ロケットの軌道計算を証明すると同時に、この社会には自分自身の存在が必要なのだと証明するかのような、感動的な名シーンだ。「黒板に数式を書く」という、映画的には地味な動きが大きな興奮へつながる、あざやかな価値の逆転にも胸を打たれた。
変えることがもっとも困難であるのは、それが自明の前提として社会全体に行き渡ってしまっている習慣であり、ルールなのだと『ドリーム』は訴える。公民権運動とは、まさにそうした悪しき慣習へつきつけた「NO」であると、あらためて認識させられた。われわれの社会が抱える問題は、それが自明の前提と化し、ルーティン化するとき、より根深さを増す。そうした問題を見つめ、変えていくエネルギーを、本作は与えてくれるのである。
『ドリーム』
公開日:2017年9月29日
劇場:全国公開
監督:セオドア・メルフィ
出演:タラジ・P・ヘンソン、オクタヴィア・スペンサー、ジャネール・モネイ、ケビン・コスナー、キルスティン・ダンスト、ジム・パーソンズ、マハーシャラ・アリ
配給:20世紀フォックス
©2017 Twentieth Century Fox Film Corporation