雨が降っていた。
秋になり過ごし易い気候が続いていたというのに、すこし寒くなりだしたと思っていた矢先、昨日からだらだらと長雨がつづいていた。
雨が降っていた。
秋になり過ごし易い気候が続いていたというのに、すこし寒くなりだしたと思っていた矢先、昨日からだらだらと長雨がつづいていた。
さざんか梅雨という名前の響きは悪くないが、さざんかの花びらを散らすこの雨は、窓辺に置かれたベッドに横たわる長身の男の気力まで散らしていた。
男は指一本動かすこともできないといったふうで、湿気を含んで広がった色素の薄い長い髪がベッドのふちから力なく床へ向かって垂れていた。
雨の音はほとんどしないが、時折家の前を通過する車が水たまりを弾く水音がかれの鼓膜をわずらわしく刺激する。
レースカーテン越しの空はどっしりと重い灰色をしていて、じっと見ていると気が滅入りそうなものだったが、寝返りをうって窓を視線からはずす気力もかれにはない。
まぶたを閉じることすらおっくうで、睡魔が襲ってきて眠りに落とされるのを待つしかなかった。
かれは窓の方を見つめながら、そろそろ開始時刻のはずのライブのことを考える。
こんなに体調を崩すのは久しぶりだった。
気圧が極端に低下したせいなのは明白で、気圧の変化で血の巡りが悪くなっているだけなのも自覚している。
だから、今朝、自分からライブに出られないと連絡を入れた。
それでも、悔しさと、自分の身体が思い通りに動かないことへの苛立ちは湧いてくる。
こんな思いで、家の中、鉛のように重い体を抱えてじっと時間が過ぎるのを待つくらいなら、無理をしてでもライブに出てしまえばよかったが、そうしなかったのは、今朝、起きた時にそばに恋人がいたからだ。
自発的にライブに出られない旨を連絡したあと、隣で電話の声を聞いていた恋人は、思いもよらぬことを申し出たーー
この医者志望の面倒な恋人にガミガミと咎めたてられる前に自分から諦めの連絡を入れたというのにーー……それだけでは彼は満足してくれなかった。
ため息すら出ない。心配もしていない。どうせ、彼のことだ、うまくやっているだろう……。
ちいさなライブハウスに傘をさした女性が次々と吸い込まれていく。
入り口には、急遽作ったであろう、PCで急いでタイプして刷り出したのがわかる簡単なA4のコピー用紙が貼ってある。
張り紙には、土岐が体調不良でライブに出られない旨と、代わりに、ヴィオラが一本入ることが書かれていた。
この文章をタイプした芹沢睦は飛び込み参加のヴィオラ弾きを慇懃な態度で迎え入れたが、土岐から連絡を貰った東金千秋はいい顔をしていなかった。
「よく蓬生が許可したな」
「止める気力もないほど参ってたんだよ」
フン、と鼻を鳴らして東金は挑発的な視線で一瞥してからくるりと背を向けてしまった。
背中で「気に入らない演奏だったらステージから叩き出す」と言われているかのように感じる。
土岐がステージに穴を開けて心を痛めるくらいなら、場違いでも、呆れられようとも、代わりがいた方がいいような気がしたから、参加を申し出た。
それから、土岐がいつも立っている場所への興味もあった。
恋人がいつもどんな場所に立っているのかが知りたかった……。
いつのまにか眠っていたらしい。大型の車が窓の外を通るガタガタという音で目が醒めた。
バシャバシャと水たまりが跳ねる音がして、鬱陶しい雨をまた意識させられる。
身体を起こすと、ぐらりと視界が揺れたが、立ちあがれないほどではない。
のろのろと立ち上がり、水でも飲もうと台所を目指す。
ふたたびめまいに襲われ、ダイニングテーブルに手をついたところで、テーブルに正方形の紙が置いてあるのに気付いた。
紙きれには綺麗な字で「こういう時はゆっくりお風呂に入って体をあたためた方がいい」だの、「むくんでるから塩分は控えろ」だの、挙げ句には「下着はゆるくなったものがいい」だのと書きつらねてある。
こんな、歩くことすらまともにできない状態で風呂になんか入るか、食事なんかするか、下着のことなど考えるかと、無機質な紙きれに向かって続けざまに抗議する。
イライラしたお陰で血圧が上昇したようで、少し足が軽くなった。
冷蔵庫から取り出した冷えた水で喉を潤したが、冷たい水は飲むなとさっきのメモに書いてあった気がする。
案の定どくどくとこめかみが脈打ち、きりきりと頭が痛みだしたが、いっそざまあみろと思った。
あのメモの通りにするのは癪だった。
ライブが終わる時刻にはまだ早い。
ふらつく足取りでベッドへ戻り、もう一度横になる。
ふう、と重くため息をついて、無理矢理に目をとじた。
ふたたび目を開けた時には、窓の外は暗くなっていた。
つけた覚えのない、部屋のあかりがついている。
続いて、腰のあたりでマットレスがたわんでいるのに気づいた。
横たわる自分の背中の、すぐそばにヒトの息づかいを感じる。
誰のものかは確かめずともわかっていたので、わざわざ振り返って確かめたりしなかった。
「おかえり」と小さくつぶやくと、「起こしたかい?」と苦笑まじりにヴィオラ弾きの恋人が言った。
「雨、あがったよ。窓を開けていいかい? 少し空気を入れ換えた方がいい」
どうぞと促すと、覆い被さるように手を伸ばして彼が窓を少し開けた。
ぐっとマットレスがたわんだ。
外から雨上がりの独特のにおいを伴って風がやわらかく吹き込んでくる。
「雨のにおいがする」
率直に感想を言うと、温かい手が髪に触れてきた。
恋人が慈しむように優しく髪を鋤きながら、「雨が降ると濡れた土のなかで細菌がにおいを出すんだ」と気取った甘い声で解説する。
「ふうん……ほんなら雨のにおいやなくて、大地のにおいやね」
真っ暗な窓の外から入ってくる空気のにおいを楽しみながら言うと、恋人は手を止め、なにやら考え込むように沈黙する。
どうしたのかと思い、寝返りをうって「どないしたん?」と彼を見上げて問う。
目があった彼は、わざとらしい真剣な面持ちでこたえた。
「合法的に名前を呼んでもらう次の手を考えてる」