こんにちは、ジュリー下戸です。
聞いてください。
先日、わたしは生まれて初めて、「ブランド財布」を買ったんです。ルイ・ヴィトンです。ちなみに、わたしは27歳の今の今まで、ハイブランドの財布を持ったことがありませんでした。ここでやたらと「ブランド」という言葉を使用するのは、決してマウンティングなどではなくて、わたしが「ブランド」に対して、10年以上ネガティブな感情を抱いていたことに起因します。わたしがルイ・ヴィトンの財布を買ったということは、「ブランド」、ひいてはそれに結び付けられている記憶に対して抱くコンプレックスからの解放を意味します。そんな、ウン10万もする買い物ではありません。けれど、人生27年目の大事件だったというわけです。
これから書くのは、その事件簿です。
因縁
ルイ・ヴィトンが苦手でした。
というか、ルイ・ヴィトンとかグッチとかプラダとか、絶対に手にしないであろう田舎の女子高生(わたしだ)でも耳にしたことがあるようなハイブランドが、ずっとずっと苦手でした。わたしはひとつも持っていなかったし、欲しいとねだったこともありませんでした。よく分からないけど高いんだろうし、そういうのは大人の持ち物だと思っていたのです。そして、そのブランド品に似つかわしくない自分が、何より嫌でした。
野焼きの煙にいぶされるような、田んぼをのぞむ公立高校に通っていました。そんな学校でも何人か、ルイ・ヴィトンの財布を持っている子がいました。本物かどうかはさておき、茶色のシックなモノグラムの財布は、妙に大人びていて、妙に落ち着きはらっていて、わたしは見ていてなんだか居心地が悪いような気がしていました。そういうのを持ってくる子たちは、別に特別金持ちの家の子というわけではなかった気がするけれど、でも大人が持つようなブランド品を惜しげもなく学校に持ってきて、その財布から出した金で購買のパンを買うような子たちでしたから、やっぱり堂々とキラキラしている子たちなのでした。卑屈なわたしは彼らが眩しくてたまりませんでした。彼らのようになれたら、人生楽しいだろうなあと思っていましたが、そうなれないこともよく分かっていました。
「ルイ・ヴィトンの財布」は、わたしにとって学生時代の嫉妬の象徴のようなものです。当時のわたしは、そのシックな魅力に気が付くほどの感性は持ち合わせていなかったので、「ただ名の知れたブランドってだけでホイホイ買って、学校にまで持ってきて、見せびらかして、そんなに楽しい?」と思うことで、「ルイ・ヴィトンの財布を持っていない、持つ勇気もない、その魅力も分からないわたし」を正当化しようとしたのでした。自己暗示はてきめんに効きました。
眩しい子たちは眩しいまま、高校を卒業しました。輝く人を羨むことをやめられないわたしもそのまま、逃げるように上京しました。
入口からこのインパクト。外まで太鼓の音(お客さんが叩いている)が聞こえてくる。
周りの誰もわたしのことを知らない東京で暮らすのは、気持ちが楽でした。自由になったついでに、田舎で抱いた周囲へのただならぬ嫉妬心を忘れようと思っていました。それでも、友人がルイ・ヴィトンの財布をバッグから取り出したり、ルイ・ヴィトンのキーケースから家の鍵を探し出したりするのを見るたび、胸の奥に重く暗いものを感じるのです。ブランドに罪はありません。ブランド品を持たないわたしにも、持っている彼女にも。だのに、田舎で燃やした嫉妬の燃えかすが、ずっとわたしの心の中でくすぶっているのです。わたしは「ブランド品にこだわらないわたし」を演出することでその過去から逃れようとしました。そして「意地でもハイブランドには手を出してやるものか」と意固地になっていったのです。
出迎えてくれるダルマ。中に入って遊べる。
運命
そんなわたしが釘付けになったのが、2017年5月14日(わたしの誕生日だった)に滋賀県のミホ・ミュージアムで行われた、2018年クルーズコレクションのショーでした。長い長いランウェイ、まるで異次元から滑り込むように闊歩するモデルたち。けれど、もっとわたしを夢中にさせたのは、日本の伝統モチーフを多用したデザインでした。デザイナーの山本寛斎へのオマージュだといい、達磨、歌舞伎、七福神なんかがあしらわれ、モデルたちの背後には松がそびえてまるで能舞台のようだし、歌舞伎を観るのが好きになっていたわたしには、とにかくたまりませんでした。この、"外国人から見た日本"、かつてパリの印象派の画家たちが日本趣味にハマったような、独自に再解釈され組み込まれた日本の伝統モチーフに、言いようのない興奮を覚えました。
ルイ・ヴィトンと和モチーフの親和性に驚いて、ブランドの歴史を今更ながら調べてみると、どうやらLVのモノグラムは日本の家紋に触発されて生まれたものだというではありませんか。パリ万博で画家たちが浮世絵に衝撃を受けたのと同時に、ルイ・ヴィトンもそこで、日本の芸術を目の当たりにしていたのでした。知った時は、思わずめまいのような感覚に襲われました。知れば知るほど、ルイ・ヴィトンにとらわれて行きました。しかし、他のシーズンのコレクションを見ても、やはり2018年クルーズコレクションほど胸は躍りません。これは運命だ。わたしの誕生日に、わたしの大好きな歌舞伎を取り入れて、あのルイ・ヴィトンがショーを見せてくれた。絶対に手に入れたい。きっと、今までわたしが手にした財布の中で一番高価なものになるだろう。それでもいい。わたしはこの財布が欲しい。それは今まで感じたことのないほどの物欲でした。
すぐにルイ・ヴィトン本社のカスタマーサービスにメールを書きました。日本支社にも書きました。行ける距離のブティックにも電話をかけ、クルーズコレクションが店頭に並ぶ日を問い合わせまくりました。そして9月、南青山にポップアップショップができることを知りました(この情報は、ツイッターのフォロワーさんが教えてくれました。わたしがツイッターで「絶対買ってやるーーー!!!」と騒いでいたのを覚えていてくれたのです。やっぱり口に出すのって大事だ。ありがとうございました)。
太鼓を叩くと、ダルマがあっち向いたりこっち向いたりする。
南青山
ブティックの前には、スーツを着込みインカムをつけた男性が数人立っていました。失礼のないようにと、手持ちの服で割と落ち着いたセットアップの服にお気に入りのパンプスを履いてきたのですが、田舎の卑屈な女子高生が顔を出しかけます。追い払われたらどうしよう。帰ろうかとも思いました。しかし、スーツの男性のひとりと目が合い、「ようこそ、いらっしゃいませ」と声をかけられた瞬間、わたしの覚悟が決まりました。男性に微笑みかけ(笑顔は引きつっているが)、さも当然のように入口へ向かいます(足は震えているが)。
中に入ると、Tシャツ姿の容姿端麗な男女が出迎えてくれました。ルイ・ヴィトンの従業員なのだと思います。商品は見当たりません。見えるのは、達磨と、太鼓、サイケデリックなムービーが延々と写される壁。従業員の女性がひとりついてきてくれ、展示の説明をします。
「これ、コレクションの服に実際に使われていた布なんです」「触ってもいいですよ」お姉さんの勧めのまま、吊るされているしっとりとした生地に触れてみました。刺繍の糸の感触まで味わえます。ミホ・ミュージアムのショーに感激してここまで来てしまったわたしには、あまりに贅沢なひととき。クルーズコレクションに触っている!胸がときめきました。お姉さんは、わたしが展示を堪能して「そういえば、わたし財布を買いに来たんです」と切り出すまで、ニコニコと待っていてくれました。「それじゃあ、上に行きましょう」つるつるした真っ白な階段を上がって、2階のブティックに通されました。
そこでは大勢の人が、商品を手に取ったり写真を撮ったりしていて、ちょっとしたパーティーのような空間になっていました。わたしは、案内してくれたお姉さんにお目当ての財布を見せてもらいました。そういえば、まだ誰のものでもないルイ・ヴィトンを見るのは初めてでした。見慣れたモノグラムがもうすぐ自分のものになると考えると、不思議な気持ちでした。縁起の良さそうな達磨に、歌舞伎モチーフが描かれたお財布を選びました。
店内は撮影オッケー。
商品を包んでもらっている間、ひとりでコレクションを眺めていたとき、ひときわ賑やかな集団が入ってきました。10代に見える、若く元気な男の子5人組でした。大人がその場を占める中で、彼らは浮いていましたが、それぞれが思い思いの服に身を包み、堂々としていました。ここは子供の来るところじゃない、なんて誰にも言わせない迫力がありました。彼らは本当に、自分が使うルイ・ヴィトンの財布を買いにきたのでした。眩しい。わたしがなりたくても、なれなかった人たち。でも、以前のような暗い感情は芽生えてきませんでした。
お姉さんが袋を持って駆け寄ってきました。「今回のコレクション、とても派手だし、個性的だし...好みが別れると思っていたんですけど、予想を遥かに上回る反響で驚いているんです」とお姉さんは言いました。「わたしはショーを見た時から、絶対買うって決めていました」と言うと「そんなお客様のために作られたコレクションですから。気に入って頂けて良かったです」。
わたしのために作られたルイ・ヴィトン。
男の子たちはいなくなっていました。
出口まで、ものすごい圧で見送ってくれる。(このモチーフが大好き。スマホのロック画面にしている)
解放
大人になれば、高価なものもあっさり買えるものなのだろうと思っていました。欲しいと思ったら、すぐにでも。そして、他の子はどうか分からないけれど、わたしはそうはなれなかった。それが、どこかでずっとモヤモヤとした雲みたいなものになって、ふとした拍子に心を覆うのです。本当は、セリーヌのバッグを持ってみたい。プラダの靴を履いてみたい。グッチのワンピースを着てみたい。ルイ・ヴィトンの財布を、持ってみたい。でも、できない。しない。お金が無い。別のところにお金を使いたい。みんなと同じブランドを持ちたくない。あれこれ言い訳して、「わたしは貧乏だから」って免罪符みたいに呟いて、ティーンエイジャーの頃に抱いた歪んだ思いを、低いんだか高いんだか分からないプライドでぐるぐる巻きにして、大事に大事に抱きしめていました。嫌だった。嫌なのに、どうしてもその劣等感を捨てられないでいました。
そこに、クルーズ・コレクションが飛び込んできました。あんなに苦手意識を持っていたブランドを、心から「欲しい」と思った。そして、手に入れました。わたしでも買えました。今ここにあるルイ・ヴィトンの財布は、生涯わたしのもの。これは「わたしのために作られたルイ・ヴィトン」。そう思ったとき、心の中の暗い部分にふと光がさしました。良いと思ったから、買った。それが、ルイ・ヴィトンだった。もう、ハイブランドの商品を持つ誰かを見かけて昔を思い出さなくても良い。ブランド品なんか持つまいと、変な意地を張る必要もない。自分の感性で良いと思ったら、ブランドだろうがそうでなかろうが、関係ない。みんなが持っているものを持たいない自分を卑下する必要もなく、持っていて偉いわけでもない。実物を手にしてようやく、わたしの心の中の卑屈な女子高生は姿を消しました。
こうして、若い頃に膨らんだコンプレックスをひとつひとつ潰していくのが、わたしの生き方なのかもしれないなと考えました。そんな時、この財布はきっとお守りになってくれる。にらみをきかせながら。
コンプレックス克服系記事
***
さて、以下は長めのおまけ。ブロガーっぽいことをしたくて、開封の儀の写真をいちいち撮影しています。わたしの喜びが伝われば良し。ルイ・ヴィトンのかわいさが伝わればなお良しです。自慢と言われても構わない。買って嬉しいものは嬉しい。うむ!!
開封の儀
さて、お目当ての商品を購入したところでドキドキしながら帰宅し、なんだかもったいなくて手をつけられず、数日たって意を決して開封することにしました。ハア~。
袋。かわいい。
箱。自分用なんですが、リボンをかけてもらいました。袋と同じカラーリングでかわいいです。
同封されていた封筒には、
明細と、取り扱いの注意事項。明細書はおたよりのように3つ折りにされ、タイプライターみたいなフォントでわたしの名前が打たれ、商品番号などまで詳細に記入されています。
そして...これ...これ...!!
ステッカー!!これ、ショーの招待客にはいインビテーションと一緒に贈られたそうなんですが、店頭で販売はしないし、いったいどこでもらえるのかも全くの謎で。欲しすぎて、ルイ・ヴィトンの本社に英語で「どこかで買えませんか」と問い合わせたり、フリマアプリで10000円で出品されているのを見て落ち込んだりしていたのです。
ステッカー欲しさに必死こいてアクションを起こす、涙ぐましい5月のブログ...「いつか何かのご縁で手元に舞い込む、なんてラッキーが起きるように」って書いてある。それが...まさか...ポップアップショップでプレゼントされるなんて...嗚呼...!!聞いて、5月のわたし。舞い込んできた!!!!
気を取り直して、開封していきましょう。ドキドキ。
ん?小冊子が...
ひ~~~!!ショーにまつわるお話が書いてある!!あのミホミュージアムでのショー、本当に素晴らしかったから、読みながらうっとりしてしまいました。
そして、ついに!!
ジッピー・コインパース ダヨ!!!!!!
本当はコインケースなんですが、中が3つに分かれていて、カードも6枚入り、紙幣は半分に折れば引っかからずに入るので、わたしはメインのお財布として利用するつもりです。
ひえ~、かわいい。5月から毎日飽きもせず眺めていたこのモチーフが、ついに我が手に。触ったり撫でたり匂いを嗅いだりして、堪能しました。
わたしの、生まれて初めての「ブランド財布」は、田舎でまぶしく見つめていた、ルイ・ヴィトン。歌舞伎を好きになったわたしの、27回目の誕生日に、歌舞伎モチーフのショーをやってくれなかったら、絶対に手に取っていなかっただろうな。運命とは不思議なものです。
大切にしよう。
ジュリー下戸でした。ありがとうございました。