衆議院議員選挙がはじまりました。論戦の中からわが国の将来をより明るくする政策が生まれることを期待します。また、同志の皆さんの勝利を祈っています。
さて、先日のブログでマクロ経済政策について取り上げましたが、今回は憲法改正について私の考えを現時点の暫定的なものですがお伝えしたいと思います。
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「加憲」などの議論はすべきだ
まず、環境権などを憲法に規定するなどの「加憲」や、首相公選制、一院制、道州制など「統治機構」に関わる憲法改正の議論は、今、一般に提唱されている内容そのものに私は必ずしも賛成ではありませんが、議論自体は憲法審査会など国会の場でどんどんやるべきだと考えます。
ただ、教育の無償化は現行憲法下でなんら制約なく実現できるのではないかと思いますし、他にも憲法に入れることが形式から考えていかがなものかと思われるものも提案されているようです。また、より大切なこととして、内閣総理大臣による衆議院の解散が憲法7条の天皇の国事行為でやすやすと行われていることに制限を加えるほうが先ではないかとは思います。どちらにしても憲法改正の議論自体はタブー視すべきでないと考えます。
自衛隊は「芦田修正」により、そもそも合憲だ
自民党は改正を主張していますが、憲法9条については、私は、そもそも自衛隊は「芦田修正」により合憲であり、それゆえ憲法9条を変える必要はまったくないと考えます。
この「芦田修正」とは聞きなれない言葉かもしれませんが、なんでしょうか。まず、憲法9条の条文を見てみましょう。
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この第2項の最初の部分、「前項の目的を達するため」は、日本国憲法を審議する中で、衆議院での修正により加えられたものです。この追加を当時、衆議院帝国憲法改正小委員長を務めていた芦田均の名前を取って「芦田修正」と呼びます。
芦田均は、内閣総理大臣を経験した後に、内閣憲法調査会などで、この修正文は「自衛のための戦力については保持できる趣旨を明らかにするため挿入したもの」という趣旨の発言をしています。つまり「前項の目的」とは戦争を「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」ことだと考えるものです。これは憲法学者の間では有力な説ではありませんが、私は制定過程の状況を考え合わせてこの解釈を採ります。
つまり、わが国が他国から侵略されたときに、国民の生命財産を守るために「陸海空軍その他の戦力」を使うことは、国際法で禁止された「戦争」などではなく合憲だと考えるのです。
内閣法制局の憲法解釈は疑問だ
一方で、政府(つまり内閣法制局)の解釈は、第2項の趣旨は「一切の戦力保持を否定するもの」として、同時に自衛隊は自衛のための必要最小限の存在なので「戦力」ではないとするアクロバットのような解釈になっています。それだからこそ解釈や運用に大きなゆがみを生んでしまっています。2015年の安保法制をめぐる与野党の対決も内閣法制局が芦田修正の立場に立っていればもう少し建設的なものになったのかもしれません。
内閣法制局の現在の解釈では「前項の目的を達するため」がなぜわざわざ挿入されたのかが説明がつきません。審議の結果、修正が入ったということはそれなりの提案者、ひいては議会の意志があったと考える必要があります。確かに帝国議会の審議の際には、芦田修正には今説明したような意味があるとの説明はなされていませんが、1946年5月当時は、GHQによる占領下、戦争犯罪を裁くとする東京裁判がまさに開廷直後でした。占領政策の方針転換が行われたのは、1949年の中華人民共和国の発足や冷戦開始がきっかけでずっと後のことでした。当時、マッカーサーの支配の下で、日本人同士が公開の場で占領軍がイニシアティブを取った憲法について本音の議論が到底できる雰囲気になかったことを思い起こす必要があります。
おそらく政府・内閣法制局が芦田修正を無視するのも、その趣旨が明示的に議事録に残っていないからだろうと思いますが、こうした先人による当時の政治的制約の範囲内で知恵をつくした修正の意味を汲み取らなかったことが憲法9条の議論を憲法学者の神学論争に貶めてしまったのではなかったでしょうか。
さらに大きな問題があります。「戦力」をめぐる定義がねじれたため、「現行憲法では自衛隊が戦力扱いされないので改憲が必要だ」という見方が生まれてしまったのです。そして、仮にそれが純粋に自衛のための防衛力の整備であっても憲法改正が必要であるかのように、言いかえれば、防衛力の整備自体がわが国の国柄を変える重大事であるかのように受け止める人々が出てきてしまいました。低予算、悪待遇の中で歯を食いしばってがんばっている現場の自衛官の皆さんがいかに心細く、口惜しく思っているでしょうか。これはなにも占領軍の検閲などとはまったく関係のないことです。内閣法制局官僚の罪は深いと言わなければなりません。
中国北朝鮮への備えが急務
東アジアの安全保障環境は悪化の一途をたどっています。神学論争ではないリアルな議論をする必要があります。わが国に対して発射されたミサイルを打ち落とす弾道弾防御など中朝への自衛的対応は、純粋に自衛のためのものであり現行憲法内で可能なことは明らかです。これは芦田修正に対して同意不同意どちらであっても同じ結論になるでしょう。また、私は「わが国は自衛権を持つこと、それを行使できること」は以前から主張してきました。
上のツイートにも少し書きましたが、私が自民党の改憲提案を目の当たりにして疑問に思うのは、なぜ北朝鮮が米本土に到達可能なICBMを開発したと主張している今、中国が尖閣諸島に迫っている今も防衛力の整備に割く予算をわずかにしか増やさないのか、それにもかかわらず憲法9条だけを変えようとするのかなのです。
北朝鮮は「先軍国家」、つまり泥水すすり草を噛みどころではない、究極の軍国主義国家です。また、中国の軍事費はついこの間まで20年以上毎年二桁増でした。一方、わが国の防衛予算は、平成29年度は4兆8,996億円で、28年度とほぼ横ばいの0.8%増。来年度30年度要求は、5兆219億円で29年度より1,223億円、わずかに2.5%増です。尖閣諸島で第一線を担当する海上保安庁の予算も年間2千億円をわずかに超える程度です。これだけの予算増で対応ができるのでしょうか。
私はこれまでも陸上自衛隊を大規模に再編し、北方重視の指針を完全に改め、サイバー戦への対応や南西諸島の対艦ミサイルでの防衛を主張してきました。(2014年の拙著「日本経済復活のシナリオ」をご覧ください。)中国の海軍の軍拡は、数年でわが海上自衛隊全体と同じトン数の軍艦を建造するペースです。わが国の平和と安全を守るためには防衛力の整備のみならず外交努力や日米協調が必要ですが、それにしても対応が不十分です。
限られた政治資源の中でできることはなにか
と、こう書けば、一部の人々から「軍事費削って福祉へまわせ!」などとお決まりの反対の声が上がるでしょう。当否は別として政治的な意見を表現することは民主主義国家では当然のことです。私が強調したいことは、憲法の枠内でのただの予算増だけでもそれだけ反対があるということです。こうした反対の声の中で、政策の舵取りをすることは簡単ではありません。
世論が必ずしも賛成していない状況で、あるひとつの政策を実現するためには、政党の支持をはじめとした政治的資源が必要になります。政党が持っている資源は限りがあります。その制限の中でどれだけ多くの望ましい政策を実現できるのか、その判断自体が政治的プロセスです。
考えてみてください。中国北朝鮮の脅威が増す今、憲法9条がボトルネックになって、例えばイージス艦や迎撃ミサイルの配備に何らかの差しさわりが起きているのでしょうか。あの共産党の志位委員長ですら、まさに彼らが批判する解釈改憲そのものの発言ではありますが、10月8日の党首討論で「私たちが参画する政権が仮にできた場合に、その政府としての憲法解釈は、その政府が自衛隊の解消の措置をとる。すなわち国民の圧倒的多数で自衛隊はもう解消しようという合意が成熟するまでは合憲という措置を引き継ぐことになります。」と発言しているではありませんか。今必要なのは自衛隊組織の組み換えと予算の優先順位を変える政治的決断だけです。
改憲にはこうした取組みよりもはるかに大きな政治的エネルギーが必要となりますが、果たして、今の東アジアの情勢の中で悠長に憲法論議をしているだけの政治的な資源を与党が持っているのでしょうか。私にはそうは思えません。
自民党の憲法改正には現実から迫られたものではなく、憲法を変えることそのものに意味を見出すものに私には見えます。憲法に現実の政治を越えた、いわば超越的な意味を持たせることは、かつての非武装中立論と同じく、多くの制約の中で現実的な政策を編み出す妨げになります。
だからこそ今、憲法9条の改正を行うべきではないのです。現時点で必要なことは、実務面での自衛隊組織の組み換えと霞が関の反発を押し切ってミサイル防衛をはじめとする自衛的装備に充てる予算を増額することです。これは官僚制度の反発を政治的エネルギーで乗り越えれば可能なことであり、憲法とはなんら関わりはありません。