脳を巡る怪しい研究成果や根拠の乏しい説、いわゆる「神経神話」を撲滅していこうとする動きが出てきた。誤った知識が広まれば、脳科学全体の信頼を損ない、学術の健全な発展や成果の社会還元に支障を来すとの危機感が背景にある。
日立製作所の小泉英明フェローによると、脳科学は誤解の生まれやすい分野だという。人々の関心は高いが、分野横断的な研究が必要で、簡単に実証できない問題が多い。“脳科学者”と称する専門家が「最近の研究からすると……」と解説し始めれば、一般の聞き手は「そうなんだ」とたやすく受け入れてしまう素地がある。
経済協力開発機構が2007年にまとめた報告書「脳の理解:教育科学の誕生」には、定説のように扱われるが根拠の乏しい神経神話に注意を払おうと、特別に1章が設けられた。この作成にかかわった小泉フェローは「脳の成果を発表するとき、研究者は慎重にならなければいけない」と説く。
1 | 脳に重要なすべては3歳までに決まる |
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2 | 学習には最適な時期がある |
3 | 私たちは脳の10%しか利用していない |
4 | 右脳型の人と左脳型の人がいる |
5 | 男性の脳と女性の脳は違っている |
6 | 記憶力は改善できる |
7 | 眠りながら学習できる |
(経済協力開発機構の報告書より作成)
神経神話を語るとき、1960年前後のグルタミン酸ナトリウム騒動がよく引き合いに出される。イヌの大脳皮質に注射して興奮性の作用が見つかり、情報伝達物質として注目された研究が「グルタミン酸ナトリウムを食べると頭がよくなる」という迷信に発展した。
グルタミン酸ナトリウムは、調味料「味の素」の主成分。当時ごはんにかけて食べる人も現れたという。もちろん科学的な根拠はない。その後、神経毒として作用する可能性がある報告も出て、流行は去った。今では、これを食べても脳に届かないことが分かり、ブーム再来はなさそうだ。
しかし、現在の脳科学ブームは似た危うさをはらんでいる。心理学実験で集中力を高める効果が分かっているゲームを「脳が活性化する」とうたってみたり、栄養学で健康維持によいとされる食事を「脳によい」と言い飾ったり。消費者の関心を引き寄せるために脳科学が乱用されている。
自然科学の研究者は通常、専門の討論の場以外で研究に関する批判や評価はしてこなかった。場合によっては特定の研究者を非難せざるを得なくなり「研究に関係のない発言は慎むべきだ」という“美徳”を尊重するこれまでの学界なら、神経神話も黙殺するだけにとどまったかもしれない。
最近、日本神経科学学会が拡大解釈した情報発信に注意を促したり、脳ブームに警鐘を鳴らす出版物が相次いで登場したりと、見過ごしておけないと主張する研究者が増え始めている。その要因は、脳科学全体があやしい研究分野と思われ始めている状況を社会に感じ取ったからだろう。
科学・技術が社会と密接につながる現代では、専門家の意見はいろいろな局面で重要な指針になる。健全な議論は大いに歓迎すべきで、今後の研究者の意識改革が成否を左右するだろう。市民も興味本位で見聞きするのではなく、ともに考える理屈っぽさが必要になりそうだ。
[日経産業新聞online3月19日掲載]