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格差・貧困

もうすぐ、日本人の8割が「負け犬」になる日がやってくる

待つのはアメリカと同じ未来なのか

高度成長期からそれ以降の時代、日本人には「差別にもとづいた笑い」が楽しまれていた。そしてそれは「必要とされて」もいた――ある時期の日本の成長は、「日本版ヒルビリー」を足蹴にすることで達成されていたのではないだろうか? 川崎氏がアメリカと日本のヒルビリー層をディープに分析する短期集中連載第4回!

【連載第3回】はこちら→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52890

「サムライ」のほうを選びたがる深刻な屈折

サッカーや野球、そのほかのスポーツの日本代表選手団の男子チームに対して、「サムライ」が付いた愛称が与えられることは多い。「日本人の大半」にとっては、こうしたイメージがきっと心地いいはずだ、というマーケティング結果に基づいたものなのだろう。いつも僕は逆に、とても居心地悪いものを感じるのだが。

なぜならば、いま生きている日本人の大多数は「百姓の子孫」だからだ。関山直太郎『近世日本の人口構造』によると、江戸時代末期の日本、約3200万人の人口のうち、約84%が百姓だったそうだ。同時期に武士は約7%だったという。

 

であるから、ごく普通に考えて「サムライの子孫」は、現在ほとんどいないはずだ。いまの日本人の大多数には「サムライの遺伝子」なんてあるはずもない。

ゆえに筋道としては、日本の代表チームならば「百姓ジャパン」と呼ばれなければ、おかしい。応援団はむしろ旗を掲げ、鋤や鍬(の模型)でも振り立てて、百姓一揆のスタイルで、代表チームの応援をするべきだ。

と書くとまるで僕が嫌みを言っていると思う人もいるかもしれないが、そうではない。「百姓」ではなく、「サムライ」を選びたがる日本人の心理のほうに深刻な屈折があるのだ。なんの係累もないのに、封建時代の支配階級と自身を重ね合わせたがるところにこそ。

つまり、それほどまでに「(マーケティング上の)日本人の大半」にとっては、「ずっと百姓だった」という自らの系譜は、「できれば忘れていたいもの」なのだろう。目を背けていたいものなのだろう。そのせいで、つねに「上」の社会的階層へと、自分をなぞらえたい欲求に逆らえなくなるのだ。「百姓ほど殿様の自慢をしたがるものだ」と、僕は小説の登場人物に語らせたことがある。

前回の記事の最後に僕は、「日本版ヒルビリー」に最も近い日本語の概念は「百姓」だ、と書いた。そして、あたかもこれが侮蔑語として機能するような日本の文化のありかたに、不健全な歪みがある、とも考えている。このことについて考察するところから、今回はついに「日本のヒルビリー」の正体へと迫ってみたい。

「侮蔑的笑い」の爛熟期

ではまず、なぜそれが「歪み」なのか? 簡単だ。日本では、総人口における百姓の子孫の割合が前述のごとくであるから、「百姓を馬鹿にする」ということは、つまりはその大半が「自分(とその先祖)を馬鹿にしている」ことになる。「百姓が百姓を嘲笑っている」ことになってしまうからだ。

こんなシーンを想像してみてほしい。「どん百姓」という悪罵があるが、見るからに百姓くさい2人が、怒りながら向き合って、お互いにこの言葉を投げつけあっている光景があったとしたら?――それはかなりシュールな、出口のない不条理コメディみたいなものになるだろう。鏡に向かって自己否定を繰り返しているような。

しかし、これこそがまさに、日本人がずっとやり続けていることにほかならない。「日本特産」のヒルビリー事情とは、これだ。いま現在はもちろん、ずっとむかしからつねに、ヒルビリーがヒルビリーを罵倒し、笑いものにすることを「好む」文化が日本にはある。なぜならば、「笑っているあいだ」はきっと、自らのヒルビリー性を忘れることができるから……これは「とてつもなく歪んでいる」と言うほかない。

そもそも日本人には、だれか任意の他者を貶めることで、自己イメージの保全を図りたがる傾向が強い。「村八分」の構造もこれに近い。その証拠というか、「一億層中流」なんて言っていられた時代こそ、その類の「侮蔑的笑い」の爛熟期だった。