どうもたんたん(@tantan4423)です。
テレビとかをみると苦労に苦労重ねて成功を収めたという感じの話がよくされています。
そのときに当の本人が「泥臭く生きて行くことが大切」みたいな事を言うのですけど、僕はそれがなかなか理解できません。
まぁ確かに辛いことから逃げるために自らの命を断ってしまうのはもの凄く悲しい話ですし、逆境に立ち向かって頑張って生きていくと言うことは大切かもしれません。
しかし、何で今のいろんな生き方の選択肢がある中で泥臭い生き方を選択をする必要があるのでしょうか??
わざわざ辛いって分かっている道を選んで「辛いわぁ」と言っているのってなんか違うような気がします。
ということで今回は逆境に立った人がわざわざ泥臭く生きていく事が本当に良いことなのかと言うことを考えていきたいと思います。
泥臭さで成功した人は運が良かったか、才能があっただけ
だいたい成功した人って目的意識があってそのために泥臭いと人から言われる生き方をしていたケースが多いです。
でもそれでも出来るだけ泥臭い生き方をわざわざ選択する必要はないと思っています。
そもそもそういう生き方で成功を得た人って自分の事を泥臭いなんて思ってもないし、あくまでネタだと思っています。
その生き方で成功した人たちは単に運が良かった人かそういう生き方が向いていただけなような気がします。
だからこそ、こういう人の言葉を鵜呑みにして何も考えずに泥臭い生き方をしてしまうと確実に不幸になりますよ。
そもそも自分の人生を泥臭いとか言ってしまう人間なんて何か寂しいです。
自分の過去現在を肯定して生きていきたい僕からしたらがその言葉自体が「俺は苦労したんだぜ」という事を回りに言って同情してほしいのかなって思ってしまうほどです。
なんか社会全体的に泥臭く生きることが美学とされているのですけど、みんなそんなに苦しまないで生きていきたいと思うし、したくもないような生き方をして死ぬ時に絶対後悔しますよ。
それよりもいかに自分が苦しくならないような生き方をしていけるかを検討して、実践したほうが良いと思います。
出来ればスマートに楽に生きていくという事を諦めないで欲しい
苦労しないと得られないことがあると言っても今の時代、情報も発達して以前と比べてミニマムな労力で情報を得られるようになってきた。
もちろん実際に経験をしないとわからないようなこともたくさんあるのですけど、経験することは出来るだけ自分が好きなことや得意なことにしていて欲しい。
出来るだけ自分の心身に負担にならないように転がっている情報や考え方は適度に拾って活用していきたい。
誰も苦労したくて苦労したり泥臭く生きているわけではない。ただそれ以外の方法しかなかったりその方法しか知らないからだ。
後者の場合は情報を集めて出来るだけ苦労せずに物事を達成できるように運んでいきたい。時間は有限であっていつ自分が死んでしまうのかわからないのだから苦労する時間よりも楽しいと思えるような時間を増やしていって欲しい。
せっかく結構自由な時代に生まれてきたのに、苦しい状態が続いてしまうのは勿体無い。苦しいことはミニマムで楽しいことをマキシムにしていく事を諦めないで欲しい。
苦労すれば必ず報われるわけじゃないことをもっと知ってほしい
そもそもこういう考えて戦後の何もなかった時代に、これから国を作っていこうという時に根付いた考え方で、高度成長という国の目的に対して泥臭く頑張っていこうみたいな感じでした。
まぁその時は頑張れば頑張るほど結果がついてきてお金も増えてきました。元のスタートが低いから当然ですよね。
しかし、そういった急激な経済成長が止まり豊かになったこの国で、昔のように頑張れば必ず向かわれるようなことって以前に比べて減ってきたのではないかと思う。
そしてこの国では衣食住の保証はきちんとされて、餓死する可能性も比較的に下がってきました。
だからこそ、多様的な生き方が生まれ、別に泥臭く生きなくても良くなったのです。
そして昔みたいに努力すれば成功することが確定しているわけでもないので、努力に対する過剰な期待はしないほうが良いような気がします。
それよりも自分が楽で居心地がいいような環境で楽しく生きていくことのほうが大事なんだと僕は思っています。
別に成功なんて結構運や育ってきた環境に左右されることも多いです。
「俺はこんだけ頑張ったから成功した」って言う人もいますけど、ただ単に運が良かっただけというケースもあります。
かといって何もせずに成功を求めるのは違うかもしれないですけど、自分の苦労や努力に過信しすぎるのもどうかと思うし、「たまたまうまくいきました」って言っていたほうが敵も少なくなるので生きやすいのではないかと思う。
努力や苦労で何でも解決しようとするのは単純に弱者を追い込む結果となる
なんでも個人の陥っている事を「努力が足りない」「苦労していないからそうなった」「泥臭く生きてみろ」と言ってしまう人がいるのだけど、それはなんか違うなとも思ってしまう。
実際には努力や苦労ではどうしようもない出来事があるわけですし、本人もそうなりたくてなっているわけではないのに、個人に全部の責任を押し付けるのはどうかと思う。
こういうことを言って辛い人間を切り捨てるのは凄く楽なんだけど、それじゃ単純に弱者を切り捨てる単純に貧しい社会になってしまうと思う。
何故こういった事を書いたかというと、出来るだけ泥臭く苦労して生きていく人を少なくしたいという思いもあるし、頑張れば絶対に報われるわけではないことをもっと知ってほしい。
そしてその失敗とかを自己責任として100%相手が悪いと押し付けるような人間は滅びるべきだと思っている。
この泥臭く生きる事が美学とされているのは、苦労話や努力した話が大好きなこの国の性質みたいなのもあるかもしれない。
一方でそうならないような助け合いだとか保証という面で放棄しているのではないかと僕は思ってしまう。
そうしないと得られないものがあるのかもしれないけど、その苦しい生き方をすることが美学として世の中にはびこっているのはやっぱりいかがなものだと思ってこの記事を書いた。