こんにちは、たけのこです。
台湾サイドストーリーです。
今回は台湾で散歩をしていたところ、
日本の日光東照宮でお馴染みの日本一有名な猿、三猿「見ざる聞かざる言わざる」を見つけました。
とっても愛らしかったので近寄ってみると、なんともう一匹いたのです。
今回は台湾で出会ったもう一匹の猿のお話。
※像の周りが服だらけなのは気にしないで下さい。
台湾で出会った「見ざる聞かざる言わざる」がもう1匹いた!
孔子の言葉から見る四猿
「見ざる聞かざる言わざる」の由来は諸説あるそうですが、その一つがこれ。
「子曰く」で有名な孔子の論語の一説
「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」
です。
これを日本訳にしてみると、
礼にあらざれば視るなかれ
礼にあらざれば聴くなかれ
礼にあらざれば言うなかれ
礼にあらざればおこなうなかれ
こんな風になります。
あれあれ、なんか一行多いですよね?!
でも東照宮の三猿は「見ざる聞かざる言わざる」しかいない。
なんと一匹、消された猿がいたのです。
陰謀説を感じますね。
消された一匹とは?
皆さんご存知の三猿はこの子たちですよね。
見ざる
聞かざる
言わざる
どうやら消された一匹は「行わざる」のようです。
一説によると猿が4匹いると四猿、「しえん」と読むことができ、
これが「死縁」とも重なることから縁起が悪いということで一匹いないようです。
それにしても、消された猿がかわいそう。
その子がこちら。
彼はしゃがみ込み、後ろに手を回しています。
彼はこんなにも真摯な眼差しで
「礼にあらざればおこなうなかれ」
を実行しているのに、なぜ消されてしまったのでしょうか。
悲しすぎます。
そもそも「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」とは?
先ほども日本訳を書きましたが、「非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、 非礼勿動」はどのように理解するものなのでしょうか。
結局、この訳の通りなんでしょうけどね
”礼にあらざれば視るなかれ
礼にあらざれば聴くなかれ
礼にあらざれば言うなかれ
礼にあらざればおこなうなかれ”
礼の無い人(常識や知識、モラルの無い人)のことは、見るな、聴くな、同じようなことを言うな、同じことをするな。
そんな意味なのかなと。
個人的にはこの「非礼勿動」が大切だと思います。
人がやっているからと言って、やっていいことと、できることは違う。
この言葉は唯一、行動を慎めと言っているんです。
やっていいこと、できることは違う
こんな子供の言い訳聞いたことありませんか
「〇〇君がやってたから、僕もやったんだ」
悪いことをして叱っているときの、子供の言い訳の定番フレーズです。
例え悪いことでも、他人がやっていたら同じことをしてもいいじゃないか。
ってことですよね。
そういう事じゃない。
「ならぬものはならぬ」のですよ。
やっていいこと、できることは全くもって違います。
大人でもこのことを理解していない人が、非常に多い。
例えば、赤信号無理やり渡っちゃう人。
法律を知らなかったから悪事を働いてしまった人。
不正と知りながら、できちゃうから、やっちゃう人。
テストのカンニング等々
バレなきゃ、わからなきゃ、やってもいいなんて、そんな都合のいい解釈が正しいわけありません。
その教えが「非礼勿動」なのです。
縁起も大切だけど、無知が増えてはならない
あなたは「見ざる聞かざる言わざる」にもう一匹の猿がいたことをご存知でしょうか。
私は知りませんでした。
東照宮の三猿の印象があまりにも強すぎるからでしょう。
縁起をかついでそのような表現になったのでしょうが、表現されなかった本来の意味が後世に伝われなくなってしまうことに少し危機感を感じました。
私達が生活している中で、同じような事柄が他にもあるんじゃないか。
それを知るには、やはり原点に戻るしかありません。
なぜ、そのような言葉が生まれたのか、原点を知ることで大切なメッセージが見えてくることと思います。
目に見えるもののだけをただ信じちゃいけない。
そんなことを教えてくれたお猿さんでした。