クルマに乗り込み、カー・ナビゲーション・システム(以下カーナビ)に目的地をセットして、いざ走り出すと、カーナビに目的地の予想到着時刻が表示される。
所要時間は1時間。
すると今日に限ったことなのか、なぜか交通量は少なく信号のつながりも良好。
カーナビの予想到着時刻は刻々と前倒しに変化しており、結局、所要時間40分で目的地に到着した。
そこで、頭の悪い僕は考えるのである。
余った20分はどこに消えたのか、と。
具体的にいうと、9時に出発して10時に到着予定だったものが、実際は9時40分に到着したということで、言い方を変えると、10時に目的地に立っていたはずの僕は9時40分にすでに目的地に立っているということである。
もし僕が、9時40分からそのままその目的地に立ち続けていたら、20分後の10時ジャストにもうひとりの僕がクルマで到着するような気がする。
その時、10時の僕がミュウとシャケを連れてきてくれたら、9時40分の僕はとてもうれしい。
僕たちは刻一刻と状況が変化し、その都度あらゆることを判断をしながら生活している。
例えば目の前に分かれ道があって、右か左のどちらに進むのか、を迷った末に右の道を選んだ僕は当然僕自身だが、反対の左の道を選んだ僕もどこかにいるような気がする。
そう考えると、生まれてから現在まで判断した数だけの僕がどこかに存在していてそれぞれの生活をしている、ということになって、僕は、別の僕の生活ひとつひとつを見てみたい。
同じように考えると、ミュウやシャケも様々な世界で生活していることになる。
別の家で飼われているミュウ、外で生活しているシャケなどがどこかにいるかもしれない。それってなんか嫌であるなあ、と思うが、もしかしたらその世界のミュウとシャケはその世界を案外気に入っているかもしれない。
もしかしたら、僕たちは、様々な世界で様々になりたい自分になって生活していて、ほんのりと幸福なのかもしれないなあ。