努力は必ず報われると言うけれど、という話です。
- 王貞治「努力は必ず報われる」
- 東大合格=最も努力した受験生なのか
- フィギュア指導者山田満知子「オリンピックは努力の上に運が必要」
- ウサイン・ボルト「才能のある人のなかで一番努力した人が頂点に立つ」
- マイケルジョーダン「ハートの全てを注ぎ込めば、勝利するかどうかは問題ではない」
王貞治「努力は必ず報われる」
努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力とは呼べない。
多くの人に浸透している「努力格言」の王様です。王さんが言っているだけに、説得力があり頭を垂れざるをえません。しかし、わたしはこの言葉にあまり共感できません。
何をもって「努力が報われた」とするかがポイントです。スポーツの大会で優勝する、とか、志望校に合格する、とか、そういう類のものでしょうか。
東大合格=最も努力した受験生なのか
先ほどの王さんの言葉を借りるなら、努力を続けたらいつかは必ず東大に合格できることになります。そうでしょうか。
貧困問題に詳しい活動家の湯浅誠さんという方がいます。著書の『どんとこい貧困』で、このように述べています。
私は東京大学を卒業して、大学院まで行った。東京大学は、偏差値の高い、いい大学と言われている。すごく努力しないと入学できない、と言われることもある。
じゃあ、私はすごく努力したかというと、そりゃあそれなりに努力はしたけれど、でも、べつにものすごい努力をしたとは思わない。ほかの人たちと同じくらいだろうと思う。それでも東大に入れたのは、母親が学校の先生で教えるのがうまくて、家にお金があったから塾にも行けて、自分の部屋で落ち着いて勉強できる環境もあって、そういういろんな「溜(た)め」があったからだろうと思う。
また、東大に通っていたからたくさんの東大生に会ったが、その人たちがそんなにすごい人たちかというと、別にそうも思わなかった。努力してないとも思わないが、とりたててすごい努力をしてきたとも、しているとも思わない。
他方で、ネットカフェでその日をしのいでいる人がいる。野宿しながら空き缶を拾い集めそれを売り、ようやくコンビニ弁当を買って食べている人たちがいる。
これまで三十年四十年と住み込み寮を転々としながら日払いの仕事をしてきて、年を取って雇ってもらえなくなり、ホームレス状態になった後、生活保護を受けている人がいる。
私はこの人たちが努力していないとは思わない。完璧な人間だとも思わないが、ふつうに、私と同じくらい「溜め」のたくさんある人たちが東大に入るくらいの努力はしている。間近で見てきて、私は率直にそう思う。
東大卒の人がこう言ってくれると安心です。わたしは湯浅さんのこの文章に、大きく共感します。
出てきた結果をくらべて、そこからさかのぼって努力の量を測れば、大きな結果を出した人はたくさん努力したことになり、小さな結果しか出せなかった人はあまり努力しなかったことになります。こういう見方がわたしを追いつめます。助けてくれい。
湯浅さんは、「溜め」という言葉を使います。その中には「能力」とか「才能」とかいうものも含まれます。
フィギュア指導者山田満知子「オリンピックは努力の上に運が必要」
次です。スポーツ分野から。浅田真央さんや伊藤みどりさんを育てたフィギュアスケート指導者の山田満知子さんの言葉です。保護者に「うちの子はメダリストになれますか?と聞かれたらこう答えるようにしている」とのことです。
努力したら1のものが5になるかもしれない。よい指導者についたら10になるかもしれない。だけど、オリンピック選手になれるかと聞かれたら「100%なれない」と答えることにしている。オリンピック出場には努力の上に運が必要。あの子たち(浅田さんや伊藤さん)はラッキーというだけなんだ。まず、目の前の小さな目標を設定し、達成に向けてがんばる。大きな目標はぼんやり描くくらいがいい。オリンピックに出るなんていう目標だと、そういった子どもたちにとって競技をやめる=挫折であり、ムダな競技人生だったということになる。オリンピックという目標を達成できるのはごく一握りなので。大事なのはその子のその後の人生の中に、そのスポーツ経験がどう関わっていくか。
「努力の上に運が必要」なのだそうです。ふむふむ。
ウサイン・ボルト「才能のある人のなかで一番努力した人が頂点に立つ」
先月、新しい「努力の格言」を見つけました。なんと、あのボルトの言葉です。朝日新聞9月24日の朝刊です。
ボルトはこう言ってます。速く走る秘訣は?と聞かれ、
全てはトレーニングだよ。自分も始めて競技場に行った時は勝てなかった。その時にコーチに言われたよ。「才能のある人のなかで一番努力した人が頂点に立つんだ」って。何があっても、自分を追い込んで努力しなければならない。
「才能のある人のなかで一番努力した人が頂点に立つんだ」です。才能のあるなしを一概に決めるのは考えものですが、負け=努力不足とボルトはとらえていないことがわかります。それと、才能のある人間としての自覚や責任感、矜持を感じます。
このインタビューの中で、「100mで10秒を切ることは、短距離選手にどれくらい大きなことか」と聞かれ、こう答えています。
勝っていれば10秒を切っていなくても問題ない、というのが自分の考えだ。勝てずに10秒を切れていなかったら、一生懸命10秒を切る努力をしなければならない。競走なのだから、最終的な目標は勝つことだ。
勝負事に身を置いている方は、自分に才能があるかどうかを自覚した上で、勝つための努力を行う必要がありそうです。ボルトがそう言ってますから。王さんと比べても遜色ない説得力があるでしょう。
マイケルジョーダン「ハートの全てを注ぎ込めば、勝利するかどうかは問題ではない」
わたしのようなこれといった才能をもたない人間は、どうしたらいいのでしょう。わたしはいつもこう思っています。
ハートの全てを注ぎ込めば、勝利するかどうかは問題ではない。
「人生日々勝負」という方には、まったく響かないでしょう。わたしは断然これ。あの神が、ジョーダンががこう言っているんですよ。わたしにとっては、ボルトよりジョーダンです。考えられるすべての勝利を得てきたジョーダンのこのセリフが、努力の格言の終着点です。「努力」という単語が入ってないのですが。
「努力で何とかなる」というのは傲慢だと思います。世の中それほど甘くはありません。ゴールも人それぞれです。これは、負け犬の遠吠えかな。