ノーベル文学賞のカズオ・イシグロ氏は「私の世界観には日本が影響している」と述べた。長崎生まれだからだろう。受賞を喜びたいし、新しい境地の作品を生み出すことを何より期待したい。
「カズオ・イシグロ」の名前が日本で一躍有名になったのは、一九八九年。「日の名残(なご)り」が英国で最高の文学賞であるブッカー賞を受賞したときだ。
英国の屋敷に仕える執事が主人公だ。生涯をかけて尽くしてきた自分の主人が、対ナチスの宥和(ゆうわ)政策という間違った外交に手をかけ、失意の中で死んでしまう。思い直せば、仕えるにも足りぬ人物であり、自分自身の私生活も失敗だったと気付いたとき、彼の人生ももう残りわずか-。ユーモアあり、悲しみあり、そんな小説である。
作家の丸谷才一氏は「イギリスへの挽歌(ばんか)」と題し、こう評した。
<つまりイシグロは大英帝国の栄光が失(う)せた今日のイギリスを諷刺(ふうし)している。ただしじつに温和に、優しく、静かに。それは過去のイギリスへの讃嘆(さんたん)ではないかと思われるほどだ>(「本が待ってる!」週刊朝日編)
ノーベル賞受賞決定後に「私の一部はいつも日本人と思っていた」と語ったように、第一作「遠い山なみの光」も第二作「浮世の画家」も日本が舞台である。
五歳まで長崎で生活し、海洋学者だった父が英国の研究所に招かれたため、一家で移住。以来、英国で暮らし、英国籍となった。
「最初に小説を書き始めた際の動機は、私の日本の記憶を保存することにありました」と共同通信に語っていた。思い出す日本は小津安二郎監督の映画の一場面のような風景という。
その後は作風は大きく変わる。二〇一五年の最新作「忘れられた巨人」は、記憶がテーマだ。伝説のアーサー王の没後、大きな戦争があったが、奇妙な霧のせいで人々が記憶をなくしている。霧の正体は竜の吐息とわかるが、竜を殺し、記憶を取り戻すべきかどうか-。そんな展開だ。
クローン人間を主人公にした小説もあって、創り出す世界の多様さには驚かされる。
スウェーデン・アカデミーは「(『高慢と偏見』の)ジェーン・オースティンとカフカの要素を併せ持っている」と評した。
偉大な感性を持った作家は次作でどんな世界へとわれわれを運んでくれるのか。イシグロ氏の活躍を楽しみにしたい。
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