筑後軌道跡のトンネルの大きさを調べる地元団体 大正から昭和初期に日田市と福岡県久留米市を結んだ軽便鉄道「筑後軌道」と江戸時代に造られた農業用水路「袋野隧道(ふくろのずいどう)」などの遺構が、日田市夜明の夜明ダム上流の筑後川左岸に姿を現した。福岡・大分豪雨の影響でダムが開放され、水位が下がったため。10月中旬に再び水没する見通しで、歴史的遺構を見られる絶好の機会に市民や歴史愛好者の注目が集まっている。地元関係者によると、全体が見渡せる形で現れるのは約60年ぶり。 筑後軌道跡はトンネルや橋の他、高さ約5メートルの軌道敷の石積みが約1キロにわたって残る。隧道の旧取水口やせき、日田から米などを運ぶ舟の通り道「公米舟通(こうまいふなどお)し」などの跡もある。対岸の市夜明トレーニングセンター駐車場から眺めることができる。 遺構は1954年のダム完成後に水没。ダムを管理する九州電力によると、豪雨で損壊したダム管理所などの復旧工事でダムの水門を開放。水位は満水時から最大約10メートル低下した。工事後は水位が元に戻るため、遺構が見られるのはあと約1週間程度という。 地元団体は遺構の調査研究に取り組んでいる。日田市の筑後軌道調査会(熊谷洋一郎代表)は会員らが現地で撮影して記録に残したり、資料を集めた。事務局の桑野洋輔さん(74)=市内銭渕町=は「日田の産業の歴史が分かる重要な場所。保存状態も良い」と感慨ひとしおの様子。 同市の夜明史談会(森山雅弘代表)も現地調査を続けている。1日には会員の森山誠二さん(63)=市内夜明=らが軌道の枕木幅やトンネル、隧道の旧取水口などの大きさを調べた。この他、駐車場に手作りの案内板も設置した。 森山さんは「今後は見られないかもしれない。先人が人力で築いた遺構を市民の皆さんの目に焼き付けてほしい」と呼び掛けている。<メモ> 筑後軌道は1916年、日田市豆田まで延伸され、豆田―久留米間約50キロが全線開業。小型蒸気機関車が3時間半余りで結び、旅客や日田の産物を運ぶ主要輸送手段の役割を担った。国鉄の久大線延伸に伴って28年に廃止された。 袋野隧道は1673年に完成。現在の福岡県うきは市の高台に農業用水を供給するため、大庄屋の田代重栄(しげよし)らが私財を投じて建設。旧水門から約1・7キロの地下トンネルを経て送水した。