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<光復節特集>命をつないだドブロク(濁酒)造り…<寄稿>李杏理
ドブロクを没収する税務署員たち
1948年のポスター。罰金10万円は当時大金だった 【写真はいずれも「在日韓人歴史資料館図録」から

忘れまい 1世の生活闘争

<寄稿>李杏理(一橋大学大学院言語社会研究科博士課程)


■□8・15後のどん底

職失い路頭に迷う…どんな仕事にも体当たり

◇◇◇◇
仕事はなんでもやりましたよ。焼酎を作って売ったりね。(略)それを一升びんに入れて売りに行く。自転車につけて、駅前の屋台に卸すの。自転車に大きいカゴをつけて、びんをひもでしばって、オヤジが運ぶの。見つかって、税務署がきてとられたりもした。(略)
 生きていくのが精一杯だった。子どものために必死になって働くばかりだからね。(金文善)
◇◇◇◇

 これは、同胞たちが地を這うように生きた証をたどる文である。

 69年前の今日、8・15をむかえた同胞は、日本の地でも「ウリヌン ヘバンテッター!(私たちは解放された)」と村々で叫び合った。土地を奪われ、徴用や徴兵に従うしかなかった苦しみからようやく解かれたのだ。

◆屑拾いなどで食いつないだ

 しかし、それはまた、日本での働き場を失うことをも意味した。解放前、同胞の多くは募集や徴用に応じて、鉱工業や土建業で働いていた。だが解放後には、7割近い同胞が日雇い労働者や失業者となり、生きる方途を失ってしまうのである。そこで、くず拾いや物品の買出し・売り出し、濁酒(=マッコルリ)づくりをして食いつなぐことになる。

 生きていくのが精一杯だった。金文善さんは、苦労をたたんだ笑い皺とこじんまりとあたたかい手のひらをのせて語ってくれた。彼女の歩んできたでこぼこ道と、そのなかで生き抜いてきた営為をすくいとりたい。それが、私が濁酒について研究するきっかけとなった。こうした1世の話に心揺さぶられたのも、私の母が、子どものために必死になって働く姿を見てきたからでもある。

 金文善さんは、濁酒をつくるだけで生活できていた時期もあったという。しかし、税務署の取締りが厳しくなると生活が立ち行かなくなり、屋台や肉体労働もして、後には生活保護をもらうようになったという。

◇◇◇◇
 戦争終わって食べるものがないっていうんで、私はうちでドブロクやりましたよ。ドブロクは年中持ってかれちゃうからね。(略)それで今度は飲み屋だ。会社なんて使ってくれないですよ。特例ちゅうて永住権は変わったけど、絶対会社は入れないですよ。(略)市の仕事もできないです。女はやれるとこないでしょ。それで飲み屋やりました。
(朴順伊‥かわさきのハルモニ・ハラボジと結ぶ2000人ネットワーク生活史聞き書き実行委員会『在日コリアン女性‥20人の軌跡』明石書店、2009年)
◇◇◇◇

■□異なる酒造文化

重宝された「家醸酒」、取締り強化にとまどい

 同胞たちからは濁酒の記憶がよく現れ、断片的には語り継がれている。また、敗戦直後は日本各地で連日のように濁酒をめぐる事件があり、新聞記事になっている。

 報道では、おそろしい「密造」事件として語られ、同胞が犯罪集団であるかのようなイメージをつくっている。そこでは先に述べたような、朝鮮人が失業状態に置かれており、生活の困窮をしのぐためになされた面が抜け落ちているのだ。

◆新聞報道など犯罪集団扱い

◇◇◇◇
「終戦になると職場は解雇になり、残った所は人員過剰でどこでも使ってくれませんですから未だ無職であります」(金斗賛・男性)。「終戦後日本人事業家が我々を使ってくれない為働く所がありません。その為に多数の家族と共に失業となっております」(金福金・女性)。
◇◇◇◇

 秋田県鹿角郡尾去沢町で1948年に酒税法違反で検挙された方への聞き取りである。敗戦にともなう解雇が同胞の生活に打撃を与え、濁酒づくりに向かわせた。

 日本にいた同胞の8割は帰国を希望していた。だが、すでに土地と生活基盤を失い、政治も落ち着く気配がないために、帰りたくとも帰れなかった。よって、なんとか日本で生きる道を探ったのだ。

 かねてより同胞は自らの手で酒をつくってきた。家(カ)醸(ヤン)酒(ジュ)という言葉があるとおり、自家で酒をつくり、客のもてなしにおいても、食事のお供としても重宝されていた。

 「ヌルッ」と呼ばれる小麦の麹と米の酒飯をあわせて仕込むのが醸造の基本型であり、これだけで濁酒が出来る。主発酵がおわり、上に浮かび上がっている澄んだ部分が清酒である。そこから醸造を繰り返して精度の高い酒(法酒や薬酒)をつくり、蒸留させて焼酎をつくる。ときにはお好みで木の実や果物、花や樹皮などを加えて、医食ものや味、香りを引き立たせる多彩な酒をつくった。

 なかでも、一度仕込むだけの濁酒は、アルコール度数が低い割に腹もちが良く、農民たちが野良仕事の合間に飲むことから「農酒」とも称されている。庶民の手に最も慣れ親しんできた酒が濁酒であったのだ。

 このような同胞の文化に根をはった自主的な酒づくりを、日本は「酒税法違反」として取り締まった。

 敗戦後の混乱にわく日本社会において、いかに経済を統制し、税金を集めるかが優先事項であった。そんななかで、酒税は財源をもたらす「打ち出の小槌」として活用された。

◆「不逞の報復」危険視し摘発

 そこへ米・食糧不足があいまって、庶民による酒造への取締りが強化されたのだ。

 とくに、1947年におきた神奈川県川崎市における濁酒取締りと税務署員の死亡後に、同胞への摘発がすすめられていく。

 税務署員や武装した警官が、証拠や令状なしに同胞家屋を一軒残らず検索し、違反でない物品までも押収した。

 この日、仕事を終えた税務署員が、帰り道で数名に囲まれて「税務署員か」と問いつめられた。「そうだ」と答えると暴行を受け、それが致命傷となって3日後に死亡した。

 大蔵省当局はこの事件を、「不逞の報復」として危険視した(「酒類密造摘発に関する態勢確定の件」)。その後、強制送還をも視野に入れて、在日同胞を対象とした「密造」の取締りが開始された。

 さらに翌年には、同胞の集住地を単位とした監視や摘発が重視されるようになる(「酒類密造の取締及び酒税収入の確保に関する件」)。このような過程を経て、同胞の酒造は、経済違反であるのみならず、社会問題・治安問題とされた。


■□吹き荒れた弾圧の嵐

次々検挙 生きる糧破壊され…世代超え一丸で阻止

◆女性や子供も身体を張って

 同胞は、生活をかけて摘発を阻止しようとした。日本全国、各地の集住地域で取締りがなされるなか、同胞は捜索を妨害したり、濁酒のかめを割ったりして抵抗した。

◇◇◇◇
 近所の女達と共に片手にマサカリをひっ提げて裸足で飛び出して行った。警官は農家から借りた大八車一杯にカメや樽を乗せて村道をゴロゴロ引っぱってゆく。彼女達はマサカリを振りあげて走りながら片っ端からカメや樽を叩きこわしてゆく。ほとばしる濁酒の飛洙は警官達の帽子や顔に飛びかかる。(判沢弘「在日朝鮮人‥李圭善の生活と思想」『思想の科学』1949年5月)
◇◇◇◇


 こうして女性や子どもが検挙隊に抵抗した記録はいたるところで見られる。横須賀(神奈川県)では同胞女性約30人が警察署に押しかけ、「警察に生活権をおびやかされた」と、署長に会わせなければ野宿でもするとすわりこんだ。大阪では子どもたちがトラックの前に寝転んで検挙隊の進行を阻止し、女性のヘアー・ピンさえも武器にしてタイヤをパンクさせたのだ。唐辛子を警官の目に投げつけもした。

 つまり一部の活動家や男性だけではなく、性別や年齢や学歴をも超えた同胞が主体となって広範になされたのが「濁酒闘争」である。

 酒税法違反の容疑で次々と同胞が検挙されるなか、活動家が仲介して抗議活動や物品の取り返しをした。日本に居続けるよりしかたない同胞たちの生活と権利をどのように守るか、切迫した状況であった。

 1946年大阪では、在日本朝鮮人連盟と建国促進青年同盟がともに「朝鮮人弾圧反対委員会」を立ち上げていた。その後東京で生活擁護委員会がつくられ、全国的に生活権を守る闘いが広がっていた。各地の民族団体は、生活協同組合を設立して同胞たちが生きるために必要な物資を供給したが、それも配給権をめぐって困難にぶち当たっていたのだ。

 「ヤミ」をめぐっては1946年、椎熊三郎議員は、朝鮮人・台湾人が「あたかも戦勝国民のごとき態度をなし、(略)その特殊な立場によって警察力の及ばざる点のあるを利用し、闇取引をなし日本の闇取引の根源は正に今日この不逞なる朝鮮人などが中心となっている」と発言した。しかし実際には、露店商で検挙されるのは同胞より日本人の方が多かった。

 そして1949年には、吉田茂からマッカーサー宛てに、日本にいる朝鮮人全員の強制送還さえ提案されていた(袖井林二郎編訳『吉田茂=マッカーサー往復書簡集1945‐1951』法政大学出版局、2000年)。

 そこでは同胞の経済違反の多さが送還の理由としてあげられている。この案は採用されなかったものの、当時の日本政府の認識を物語っている。

 違反をせねば生きていけなかった当時、同胞たちは生活保障もないままバッシングにあい、生きる途が切り縮められていった。このときは日本人もまたヤミをしなければ生きていけない状況であった。にもかかわらず、もっぱら同胞のみが法を犯しているかのようなイメージ操作がなされていたのだ。

 以上のように、当時の同胞にとって濁酒づくりは、生きるために残された数少ない食いぶちであった。

◇営為の歴史を掘り起こそう

 各地の同胞集住地で取締りにあったとき、多くの同胞が必死に抵抗した。それは、たんに犯罪や違反の事件群なのではなく、民衆たちが自らの生活と権利をかけて闘った「濁酒闘争」というべき軌跡である。

◇◇◇◇
 昔の記憶が思い出されました。私の母も生活のため焼酎を造っていました。夜、酒造りのためにかまどの前に座り、火の番をしたこと、登校前にお酒を田舎の百姓さんの家までバスに揺られて届けたことなど、いろいろ思い出しました。あらゆることをしながら、私に民族教育を受けさせてくれた母に改めて感謝しました。
(山口県・63歳・女性)
◇◇◇◇

 これは、以前私が書いた記事を読んだ方からの感想である。

 多くの在日同胞の方々が、原風景のように濁酒および8・15直後の生活を記憶されているのではないかと思う。生活の途がほとんど残されていないなかで、なんとか生をつないだのが濁酒であった。そのささやかな生活の糧が破壊されそうになったとき、同胞たちは切なる声を上げた。

 かつて故郷の土地を追われ、日本に流れ着いた人びとが、身よりもない社会の片隅に追いやられて直面した苦悩とたたかい、8・15以後にあっては、もはや底辺にじっとうずくまる者としてではなく、自らの生を担う存在としてすくっと立ち現れたのである。

 これからも1世が生き抜いてきた営為と歴史を掘り起こし、解きほぐされていない偏見や痛ましい過去を克服していきたい。それは、3世以降の私たち自身がどのような背景をもって生まれ、どのような人生を切り開いていくべきかを探究することにもなるだろう。

(2014.8.15 民団新聞)

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