あたかも差別がないかのようにふるまう人が多いように思う。
差別とは
この記事を読んで、差別に対する意識が低いと感じた。
大学生のときに少し差別について学んでいたので、気になった論点をいくつかあげたい。
差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である
差別の定義については、ひとまず国連が定義しているらしい上の文言を想定する。
この記事の結論での主な主張は次の2つである。
1 差別がない状態とは、だれもが同じ機会を獲得できる状態である(=同じように接していれば差別ではないというわけではない)
2 日本の差別は「一方的な除外行為」というよりも「相互的な除外行為」である
上の記事のような例は極端だとしても、こういった日本型差別の特性を理解せずに差別論をかざしている人を良く見かける。
諸外国の差別と日本の差別
黒人差別やアパルトヘイトといったきわめて強力な差別が存在した国では、国家を挙げて差別をなくす運動が行われてきた。
日本における差別は、どちらかというと「除外行為」というよりは「すみわけ」に近いものがあった。差別は差別であっても、完全なる一方的な抑圧というよりは、アンバランスなギブアンドテイクとでもいうべき状態だったのだ。
かつて日本にあった代表的な差別として「士農工商」を挙げる。
私は歴史の専門家ではないので誤った認識があれば訂正していただけるととてもうれしい。
士農工商は、ふるい歴史の教科書には次のような記述があったと思う。私が高校生くらいのときには下記のように教わったと記憶している。(教科書の刷新はかなりの頻度で行われているので、若い人たちが高校生だったころの教科書では別の記述になっているかもしれない。)
士農工商という厳格な身分制が敷かれ、士族に生まれたものは士族として生きて行く云々。
四民の下には被差別民が云々。のちに解放令で平等とされた。
しかし、実際には次のような論点があるそうだ。
高校生のときに教わったイメージとはだいぶん違っており、ひどく驚いた記憶がある。
お金さえ払えばだれでも士族になれたが、士族は貧窮していたので誰もなりたがらなかった
農業は重要かつ重労働だったので、農民の不満を減らすために士族の次の身分とされた
商人は最も楽に稼げたので、商人に対する妬みを減らすために四民の最下位とされた
被差別民は医師や死馬処理*1 などの高給職に就いており、不満はそれほど多くなかった
解放令のあとは、医師や死馬処理などの高給職に農民などが参入したが、この参入を恐れた被差別民は解放令に反対していた
士農工商は日本における差別の代名詞だと思うが、一方的な除外行為というよりも「強制力のある棲み分け」といったニュアンスに近いように思える。
解放令以前は、農民も死にかかわる職に就けなかったことを考えると、相互的な除外行為というのが適切だろうか。
少なくとも形式的には差別を撤廃した解放令についても、近代国家として諸外国に認められるための国家戦略であり、人民の努力の上の結果ではない。
このため、強烈で一方的な差別を人民の力で打開した経験のあるアメリカなどと比べると、日本は差別問題に対する意識が低い。
アファーマティブ・アクション
差別を解消するために、差別されていた人々を優遇することがある。
アメリカが人種差別(黒人差別)を克服したときにも、大学入試などで黒人を優遇する政策がとられた。
このような政策に対しては、差別を是正するため優遇は問題ないが、度が過ぎる場合は逆差別となって違憲である、と考えられているようだ。
差別をなくすとはどういうことか
差別をなくすことと平等であることとは、おおよそ同じ意味らしい。
そして、資本主義国家における平等は機会の平等を意味する。(共産主義国家における平等は結果の平等を意味する。)
障害者差別がない状態とはどういうことか
障害者に差別がない状態とは、障害者が障害者でない人と同じ機会を獲得できる状態を指す。
たとえば、大学受験において目の見えない人と目の見える人とで機会が異なってはならない。受験という同じ機会を提供するために、大学は点字なり読み上げなりといった対応をしなくてはならない。
車椅子に乗る人が電車に乗れるようにスペースを車内に確保して、乗車時には駅員が補助するのは、機会の平等を保証するために必要な行為である。
日本では、このような特別な施策を「逆差別」と捉えたり「ずるい」とさえ考える人が少なくない。
確かに対応に差はあるが、対応に差をつけることで機会の差を是正するのが差別撤廃というものである。
日本人はどうやら「対応に差をつけて機会を均す」という発想に疎いように思う。平等に対する発想が、機会の平等というよりも結果の平等に近い(状態の平等というべきか)、共産主義的な人が珍しくないのだ。
日本における性差別について
個人的な見解だが、日本における代表的な差別は性差別だと思う。
しかし、それは世間一般で言われるような「男尊女卑である」や「むしろ男性の逆差別だ」ほどシンプルな問題ではない。
士農工商のところでも書いたが、日本における差別は一方的な除外行為ではなく相互的な除外行為である。
より具体的には、日本の性差別は「職業などにおいて女性に対して十分な機会を提供できていないぶん、婚姻や性犯罪においては女性を優遇する」という形式で存在する。
「女性だから昇進できない」は現代でも暗黙のうちに存在する一方で、離婚などの場面においてはほとんどの場合で女性の主張が優先される。
私は、日本の性差別が解消されにくい原因は、両方の性が「自分に不利な部分だけ解消したい」という欲求を持っているからだと思っている。
女性の多くは、裁判などで裁判官が性に中立になることには反対だし、男性の多くは、管理職の地位を簡単に手放そうとは考えていない。
しかも、どちらかが改善されれば他方も改善されるという問題でもないから難しい。
学歴差別について
もうお分かりだろうが、日本における差別とは機会の不平等を指すので、結果の不平等である学歴による選別は差別ではない。
大学受験が平等であるかぎり、学歴によって採用時の評価が異なるのは全く問題ではないのだ。
ときどき「学歴が低くても『優秀』な人はいる」という反論を述べる人はいるが、企業によって「優秀」の定義が違う以上は反論になっていない。あなたが思う「優秀」と同じ感覚を持つ企業なら、学歴が低い人を採用しているはずだ。
ただし、「幼稚園出身か保育園出身か」といったものは本人の努力ではどうにもならないものなので、学歴差別といえるかもしれない。私は幼稚園も受験して入園したが、そのことで優遇してもらおうと思ったことはないし、そもそも求職の場面でそんな話をしたことはない。
国籍差別について
中国人や韓国人に対して理由なく嫌悪感を示す人はいるし、障害者をサポートしない人もいるのだが、どちらかというとあまり頭の良くない人たちが個人的に行っている行為であって、国家や文化として存在する差別ではないと思う。
いずれにせよ、最大の差別は性差別であろう。
日本の差別問題の展望
差別を解消するために
いうまでもないが、差別がある状態というのは好ましくない。
しかし、国民の差別問題に対する意識が低く、しかも相互的除外という構図では、差別をなくすのは難しい。
結局のところ、解放令のときと同じようにトップダウンでお役所が動くしかないように思える。
実際、いまの公務員試験はかなり女性有利だといわれるが、これも官僚たちが頭を悩ませた結果なのではないだろうか。
つまり、公務員の女性比率を高めることで、民間企業にも女性が増え、男女が対等に稼げるようになれば婚姻周りの優遇もなくなるだろう、ということである。
こういった女性優遇を思考停止して批判している人は、差別についてもう少しよく考えてみてほしい。
*1:当時は、死に触れることが穢れとされており、忌み嫌われていたそうである。このため、需要に対して供給が少なく、他職と比べると非常に高給だったらしい。