2015-01-20

文覚

★文覚

「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年) 
鎌倉期に入るとまもなく、佐渡に怪僧文覚が流されてきた。文覚は波多のうち大久保の地に住んで、その地にある滝で行をしたと伝えられている。文覚の流罪については、中央の史家の間でも明確ではなく、なお流動的な点はあるが、近年の研究では、佐渡流罪はほぼ確定的に認められるようになった。『廣辞苑』は、「一一九九年佐渡に流され、一二〇五年また対馬に流された。」としてある。しかしどの書をみても、それが佐渡のどこであるのかについては、上記の伝承にょる資料のほかには何も見当らない。文覚を知る資料としては、『平家物語』・『吾妻鏡』などの武家記録があるが、これらは物語りであり軍記なので扮飾が多く、史実とは異なる部分の多い点が指摘されている。(相原精次『文覚上人一代記』)例えば、よく知られている袈裟御前との悲恋と殺害の話でさえも実話ではなく、中国の「東帰婦女」の焼き直しであるという点などである。そして文覚の激しい性格と旺盛な行動力のために、文学作品や劇の対象になり易く、それが虚像を作り上げるのに一層その傾向を強めたようである。
文覚の最初の配流の地は伊豆であった。そこで源頼朝との出会いがあり、平家追討の企てがなされた。また僧とし
ても京都の東寺や神護寺復興に活躍したことも事実とされる。こうして日本歴史に大きな影響力を与えた人物であることには異論がない。佐渡に流された動機について『大日本史』は、文覚が頼朝を唆して、遊び好きで政ごとを怠る後鳥羽天皇を廃して、皇兄守貞親王を立てようとしたが、頼朝がこれに応じないまま薨じたため、事が洩れたことによるとしている。またそれとは別の動機を伝える書もあるが、いずれにしても文覚の流罪は、鎌倉幕府からのものではなく、朝廷からの命令であった点で、のちの日蓮の場合などとは事情が異なっていた。
文覚の佐渡流罪が確かであり、佐渡でほ大久保の他には配所が聞かれないというのであればこれが事実に近いものなのであろう。大久保には、文覚の弟子たちによって建てられたと伝えられる真禅寺があり、その真禅寺の奥の院があるナべクラの滝を修業の場とし、滝の脇には文寛が刻んだという稚拙な不動明王の石像が祀られてある。さらにその滝の下方には、文覚の墓あるいは弟子たちの墓という右横みが数基ならんでいる。
文覚が佐渡に流されたのは、七十九才の高令に達してからのことである。在島中にほまだ真禅寺は存在しなかったので、その期間には慶宮寺が預かったのではないかとする見方がある。(『畑野町史・信仰篇』)たしかに慶官寺の山号・神護山には、文覚が再興した京都高雄山神護寺を思わせるものがある。ナべクラの滝の東側にそびえる京中という山の呼び方は境中からの転化らしいが、京の文字を当てたのは、この地とは異質で、京から釆た者の在所であるかのような印象を与えている。ただし文政五年の村絵図では、京中(なか)の地名は山の西側から文覚墓のある沢にかけての斜面の呼称で、山の名ではない。その他にも遺跡としては経塚・行水池・腰掛石があり、文覚作を伝える和歌もある。佐渡関係の古書のうち、江戸中期に書かれた『佐渡名勝志』や『佐渡舌実略記』には文覚のことを伝えておらず、江戸後期の『佐渡志』につぎのように書いてある。
文覚上人墓
雑太郡大久保村真禅寺後の山にある正治元年高雄の文覚上人流されて此国に来り(大日本史に百錬抄皇帝紀抄を引て文覚佐渡配流とあり平家物語に隠岐に流されて死すとあるはあやまりなるべし)守護人に語りけるは我齢既に傾きぬ今幾程か此世にあるへきなからむ跡を人間に読されむことこそ安からね同しくは世離れたる山の奥に居らはやとて遂に邪辺久羅といへる深山に入り庵を結ひてやかてここにて身まかりぬ都より従ひたる弟子の僧相謀りて庵の跡に寺を作り真禅寺と名つくといへり
文覚終焉の地についてほ諸説がある。佐渡以外では、隠岐・対馬・鎮西などである。前記した廣辞苑にょると、七
十九才で佐渡に流され、五年間在島して八十五才になって対馬に三度目の流罪となったことになるが、さらに他の資料ではその後に鎮西に流されたとあり、信じられぬほど転々としたことが誤りであるとも言い切れない。
文覚は俗名を遠藤盛遠といった。生れたのは父の盛光が六十才・母も四十三才になっていた。出産と同時に母は死に、やがて父をも三才のときに失なった。そのため親戚の青(春)木道善に育てられ、同族の滝口遠光が烏帽子親となって、その滝口の取りなしで、上西門院(鳥羽天皇第二皇子統子の居所)の北面の武士(警備兵)となった。俗説ではここで袈裟御前との一件があって、同女を殺害したことが動機で出家したことになっている。そして熊野に入山し、那智の滝で一千日の荒行ののち、京都で神護寺復興に奔走し、そのことで犯した、後白河法皇への無礼の振舞に対し咎を受け、伊豆に流された。しかし源平の戦いで勝利した頼朝支持によって、文覚も一時は権勢を振った時代があった。
文永八年(一二七一)に佐渡に流された日蓮に帰依し、日蓮に奉仕した僧日得・俗名遠藤為盛は、この盛遠の子孫であるという。文覚在島から約七十年余り後のことであるから、もし血縁者であるとすれば孫もしくほ曾孫ぐらいになるのであろう。しかしそれはかなり伝説的で、史家たちはそれを認めていない。その他文覚に関する記録や考証
は、町史・信仰篇に「真禅寺と文覚」の項を設けて詳述してある。

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