8年前の10月4日、中川昭一先生の急逝が報じられた。
亡くなったのは平成21年10月3日のこと。
急報に接し、様々な立場の者が、それぞれの覚悟を抱いた。
あの日から、どれほどのことが起きたろう。
自民惨敗、民主党政権樹立。
迫りくる闇法案、建て直しを図るべく鼓舞するネット保守陣営に、急報として入った訃報。
私はあの日を忘れることができません。
一歩を踏み出す勇気を、心に宿した日のことを。
谷垣総裁の元、一丸となって戦った時代を経て、
政権奪還の衆院選、安倍総理の誕生。参院選での、本当の政権奪還。
ネット保守と、政治家が最も身近であったろう、時代。
春が来て、夏になり、秋が訪れ、冬となり。
何度目かの秋が来た。衆議院、解散。
我が国の上空を何発ものミサイルが飛んでいる現在。
中川昭一が生きていたら、なんと言っただろう。
どうしても今日は、考えてしまう。
次期総理候補として、あの人が生きていてくれたなら、と。
盤石の、これからも続く自民を、もっと愛せただろうと・・・。
中川先生、貴方の最後の原稿、私が著作権(使用権)をお預かりしました。
当時、現職でもなかった私には、極めて重たいものでした。
中川先生、いまの日本を先生はどう見ておりますか?
私たち、若手はちゃんと仕事ができているでしょうか?
さて、泣いても笑っても衆院選。
中川さんに笑われないように、頑張ろう。
あの人が、天国で美味い酒を安心して呑めるように。
※注
タイトルにおいて、また記事中の一部においても中川昭一と敬称を略して表記しておりますが、これは「存在」としての中川先生を示した表記です。
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(OGP画像)
発表は明けてのことだったろう、報道は4日のことであった。
あの時代がどのような時代であったか。
いまから平成21年(2009年)、8年前のことである。
もう8年、なのか。
たった8年なのか。
僅か数年前のことと言うこともできるし、遥か昔のことのようにも思う。
経済に主軸をおき、リーマンショックから回復基調を見せた麻生政権。
真骨頂たるあのダボス会議において、
世界中から賞賛されたダボス会議だが、
日本国内において「のみ」、徹底的に叩かれた。
私の記憶になるが、会議終了後の会見であり、
しかも会見前に「うまく行って良かったですね」と酒を飲ませたのは、毎日新聞の女性記者であったと思う。
その名は越前谷知子。
比例復活もならず失職。
民主党に拠る「政権交代の象徴」かのように、その落選は徹底的になじられた。
偏向報道どころではなく、実際には捏造もあった。(バチカンの証言など)
落選してまで、現職を退いてのちもなじられ続け、その名は徹底的に汚され続けた。
木原みのる、落選。
赤池まさあき、落選。
中山なりあき、落選。
西川きょうこ、落選。
臼井しょういち、落選。
総裁であった、麻生総理をなじり続けるテレビ。
笑顔であった麻生さんの、あのような顔は初めて見た。
あのような顔をさせてしまったのだ、私たちは。
自民党は惨敗し、麻生政権は潰えた。
9月16日、民主党による鳩山内閣誕生。
悪夢の時代の、始まり。
一部のネットユーザーは、手探りで麻生選挙を支援。
党本部もこれに答え、ギャンブルパンフなどが作成された。
リアルのノウハウを持たぬネット支援者たちと現実の事務所は、各所で不幸な衝突も見せた。
両者が手探りの中、連携を模索した時代。
その報は、もたらされた。
保守の希望の星、中川昭一の急逝。
誰もが言葉を失った。
ネット保守、指揮官級すらも言葉を失い、陣営を鼓舞するどころではなくなった。
民主党政権の成立を受け、折れ切っていたと思った心は、
完全にバラバラになった。
民主党への危機感から、ネット上でも「リアル活動の重要性」が盛んに議論されていた。
ポスティング等のリアル活動が提唱され、小さな一歩を踏み出したばかりのネット。
よちよち歩き、やっと政治を学び始めたばかりのネット保守派は、意気消沈。
組織化もままならず、崩壊するやに思えた。
web空間では、夢も希望もないとの嘆きが溢れかえった。
あの時、現場指揮官らは、覚悟をもってそれぞれの戦線を維持。
崩壊しそうな戦線を、「足並みを崩すな」「戦おう」と、自分自身も泣きたい気持ちを抑え、周囲を鼓舞していった指揮官たちの姿がそこには在った。
名もなき者の、身を捨てた戦い。
私も小さな戦線を支える一人であった。
平成21年を、多角的に振り返る。
いま思えば凄まじくどうでもいい話で「いつ解散ですか?」とメディはがなりたてた。
ネットがある程度の監視機能を有する「8年後のいま」とは異なり、
あの年は、偏向報道が最も激しい年であったようにも思う。
メディアによる攻勢により(敢えて言わせて頂くが)「民度の低い層」を徹底的に狙い、支持率から見て「勝てる算段」をつけた上での「解散風」のように感じた。
その武器として「現金あげますよ」という子ども手当は有効な手段であった。
私が「民度の低い層」と、政治家にあるまじき発言をさせて頂いたのは、ここに起因する。
政治は、メディアに敗北した。
国の予算規模は膨大ゆえ、なんでもできそうな気はする。
だが、もともとは皆さまが納税したものであり、過大なサービスを提供すれば税金があがる。毎日、コーヒー1杯を節約すれば、数千万円もするスーパーカーがもらえるみたいな話。
考えればわかりそうなことを、身勝手な大人たちは無責任に信じ、
当時、選挙権もなかった10代の子供たちの未来を叩き潰した。
あの時の大人たちは、皆、次の世代への加害者だ。
確かに「メディアに騙された」被害者でもある。
だが、最終的には、投票の合算で決していることは事実であり、加害者となっている「罪」をなかったことにはできはしない。
私たちは、ネットを含め、必死に戦った。
だが、勝つことができなかった。
敗北したという意味では、私も次の世代への責任はある。
あたかも「明日、解散」「すぐ解散」と報道したことの「罪」は、問われたのだろうか。
就任直後より連日解散と言われ続け、結果として、それらの報道はすべてが誤報であったのだ。
あの罪は、ネット不在の中、誰からも責められることはない1年であった。
ネット上の支持層と政治は、スムーズな連携を取れたとは言い難い。
連携不足もあっての、ネットが敗北した年とも言える。
リアルでの動き方がわからずノウハウ不足による部分も大きかった。
例えば選挙の支援方法、リアルでの動き方がわからない等。
頭数は相当に揃えども、指揮官をもたず組織化されていないというネットの特性が、逆に弱点となった側面もある。
希望。
小さな萌芽。
政権交代は、起きてしまった。
対民主党政権、対闇法案。
組織化の必要性が叫ばれ、リアルとの連携が模索されていた。
これは自民党側においても、またネットにおいても同様であった。
両者のすれ違いは続き、求めあう手が握りあうことは難しかった。
ネットと政治が、実務的に交わり始めた年であった。
「漢字が読めないから落選させられた」「中川が酒飲みだから落選させられた」
落選してしまった議員自らが言ったわけではないが、支持者からは怨嗟の声。
無論、中川先生への批判も。
本来は責任を問われる必要のない者たちが、敗北の責任を問われ続ける恰好となった。
中川先生自身、恐らくは散った同僚議員たちへの贖罪の意識に悩んだのではないか。
特に選挙前においてだが、自民党の内紛が報じられた年でもあった。
継続性については弱さも見せるネット。
継続しての行動、国籍法からダボス会議、続く麻生選挙。
疲弊しきっていた。
私生活もあり、その上で「ちょっとネットも」という負荷ではなかった。
意外に思うかも知れないが、当時のネット空間は今とは相当に異なる。
議論の深化という意味では現在のほうが進んでいるかもしれないが、当時は「極めて実務的なこと」を行っていたチームが複数ある。
野党自民とネットは、各所で固く手を握りしめており、ネット発の国会法に基づく請願も複数が展開。実際に提出し、委員会付託まで持ち込んでいる。ロビー活動の実務面では、現在よりも遥かに進んだレベルであった。
ただし、参加人員としては(いまに比較して)少なく、
各個々人にかかる心理的負荷、肉体的な負荷は、膨大なものとなった。
倒れる者も続出した。
ただの一発の弾も、絶対に通せぬような事案ばかり。
様々なものを犠牲にし、多くの者が前に立った。
長く持つような、そのような体制ではなかった。
連携の必要性が、政治側・ネット側から模索される最中、
ネット保守層は、自民党支持者と一部において対立。
実際の政策上の実績を知るネットは、麻生・中川を高く評価。
ネットは、メディアの偏向を批判。
麻生・中川を(報じられぬため知らなかった)自民支持者と溝を深めて行く。
思えばこれすらも作戦であったのか。
疲弊しきった状態で見せられた自民党の内紛劇。
心を折るには充分であった。
葛藤、そして苛立ち。
多くの者が、去って行った。
しかし。
リアルとの乖離、ここにネット保守層が疑問と悩みを感じつつ
衝突しながらも距離を縮めはじめた年であった。
ネットとリアル、その始まりの年でもあった。
私自身もその末端として、双方の橋渡しを模索した一人であった。
FBという実名SNSが登場する以前に、政治専用SNSを開設。
最盛期は年間20億PVを達成、自民党の支部長を公式アカウントとして迎えるまでに至った。
(webからDLする方式の、国会法に基づく請願はこの際に多用された手法)
3種郵便の取得を目指したものであるが、現在は実質の休止状態。
やがて事業廃止も検討せねばならない。
結果としてweb上からは「前向きに」一時引退した者もいる。
リアルのロビイストとなっていったのだ。
私もその一人であるが、地方議員選挙を戦った者も多い。
このとき、小さな芽は育ち始めた。
ネットとリアルの融合、双方が模索を始めた瞬間。
折れかけた心を必死の思いでつないでいた、あの日。
中川昭一というヒーローを失った。
無論、現実世界での評価は高い、
のみならず、ネットでは偶像化された、
すでに神格化とされたと言ってもいい英雄であった。
今後のこと、体制の再構築。
ぼろぼろの保守陣営を見るに、誰しもが言葉を失った。
そのような全体のことは、どうでもいいとすら思ってしまった。
ただ、何より悲しかった。
30歳を過ぎて、はじめて泣いた。
麻生選挙は、負けていない、とそれでも言いたい。
結果が全てであるが、実は負けたとばかりも言えないのだ。
それは安倍選挙が「勝った」とは言えない、深刻な状態を示すものでもある。
その経済政策は、財務大臣 中川昭一の手によるものであった。
麻生選挙は惨敗した。
結果、それらの政策的な方針は、国民の手により完全に葬られた。
中川昭一の死と共に。
結果、経団連に迎合したかのような政策に縛られることとなった。
今後の自民党政権は、(メディアの)スポンサーを、ある程度は喜ばせるような運営しかできないだろう。
長期政権を目指すことが国益と同一視できる以上、残念ながら構造上の問題となってしまっている。
中川昭一が不在であり、構造改革路線の総括ができぬまま今を迎えてしまったためだ。
恐ろしいことがわかるだろう。
麻生選挙は、負けたとも言えなかった。
一丸となった、リアル保守陣営・ネット保守層の献身的なまでの支援は、確かに数字に結び付いていた。
得票だけで言えば、最高とも言えるほどの得票を得ている。
安倍選挙の得票は、実は、比較すれば低い。
差は、野党が民主党に一本化されていたか、
もしくは少数野党に分断されていたかの差に過ぎない。
麻生内閣も、そして中川さんの経済政策も、数字として確かに支持されていた。
(年表にして数字にすると、実は保守も票を落とし続けていることに気付くと思う。)
政権奪還を含め、その後の衆院選は「野党がバラけていた」か否か、に過ぎない。
これが小選挙区のマジックである。
しかし、その軌跡は、一部において新自由主義の味がするのだろう。
安倍政権の長期化をもって、国内は安定するだろう。
産業なども活発化するだろう、しかし、その先はどうなのか。
あの時、私たちが麻生さんを守り切れなかったことによる「打撃」に対し、これで間に合うのだろうか。
野党自民を率いた、谷垣総裁も引退した。
当時は「種」に過ぎなかった私たちは、しっかりとした「芽」になれたろうか。
保守の政治家の後進は、果たして育っているのだろうか。
この判断は、私はいまだ持ちえない。
どうしたらいいんだろう、
もういない方に問うのは間違っているのだろうが、どうしても今日は、中川さんのことを考えてしまう。
これからの日本を、どうしたらいいんだろう。
あの時、真夏の麻生選挙、私は必死に戦った。
皆も必死に戦った、だけど足りなかった。
あの時、あの時、もっと。
悔やんでも悔やみきれない。
一分もない動画だ、これで思い出すと信じる。
それとも思い出すのはこちらでしょうか?
続編、である。
激戦区に投入された、新米ネット保守、小さな戦線を支えた思い出話。
覚悟を決めたあの日、私たちの戦い。
政権奪還、参院選の勝利、安定政権へ。
美しい野党自民と共に戦線にあったことを、ただ誇りに思う。
祭りの後、私は引退を決意。
(のち私は復帰し、いまに至る。)
私たちが支えた野党自民、その指揮をとったのは谷垣総裁(当時)であった。
政権奪還が確実視される中、石原幹事長が後ろから撃つ。
政治の「当たり前」を見せられ、私は【与党自民に想像される変化】を知った。
引退の決意、その構図は、維新の志士が明治政府への合流を拒否、田舎に帰るようなものである。
あの日から8年。
日本は、どうなったのか。
「与党だから」という理由で、仕方のない話もある。
わかっている。
だけど、私の愛した野党自民は、もういないのだということを
政権奪還を果たした喜びとともに、寂しくも思う。
そしてあの訃報に接し、涙を流した友たちは、今日をどう過ごしていくのか。
覚えていますか、今日は、中川先生の急逝を知った日です。
日本のために身体を張った男を知り、
それぞれの立場で、様々な者が覚悟を決めた日です。
我が国の上空を何発ものミサイルが飛んでいる現在。
中川昭一が生きていたら、なんと言っただろう。
どうしても今日は、考えてしまう。
時期総理候補として、あの人が生きていてくれたなら。
盤石の、これからも続く自民を、もっと愛せただろうと・・・。
中川先生、貴方の最後の原稿、私が著作権(使用権)をお預かりしました。
当時、現職でもなかった私には、極めて重たいものでした。
中川先生、いまの日本を先生はどう見ておりますか?
私たち、若手はちゃんと仕事ができているでしょうか?
さて、泣いても笑っても衆院選。
中川さんに笑われないように、頑張ろう。
あの人が、天国で美味い酒を安心して呑めるように。
静かに心の中で手をあわせ、
一歩を踏み出す勇気を心に宿す者は、
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- ISBN-104792605474
- ISBN-139784792605476
- 出版社青林堂
【今日は何の日】中川昭一、急逝の報。あれから8年【黙祷】 8年前の10月4日、中川昭一先生の急逝が報じられた。 亡くなったのは平成21年10月3日のこと。 急報に接し、様々な立場の者が、それぞれの覚悟を抱
小坪先生、中川昭一先生情報ありがとうございます
>8年前の10月4日、中川昭一先生の急逝が報じられた。
>亡くなったのは平成21年10月3日のこと。
>急報に接し、様々な立場の者が、それぞれの覚悟を抱いた。
コメントを書く前に、モニターのまえで、黙とうをささげました。
閑話休題・・・・
TVで、中川昭一先生の酩酊会見映像がこれでもか!これでもか!とたれながしされていたことを思い出しました。そして、日本国民全体が、すっかりその酩酊会見情報で洗脳されてしまいました。いまおもえば、日本の財務大臣が酩酊状態になったら会見するのをとめる日本の官僚でもだれでもい!そばにだれもおらんかったい!どうかんがえても変だろ!となるはずがそうはならなかったんですね。
まんまと、中川先生の足を引っ張りたくて仕方のない反日マスゴミのやりたい放題のフェイク映像にひっかかったというわけです。
わたくしもまんまとひっかかった一人でございます。猛省いたします。
もう、あのような反日マスゴミのフェイク映像に接したら、なんかおかしいぜ!と脳内スイッチがはいるような日本人でありたいとおもいます。そうなるためにも、小坪先生のブログに日々接して、感性をみがいてまいります。今後ともよろしくおねがいもうしあげます。
小坪先生、日々の骨身を削ってのご活動誠にお疲れ様です。
8年前のあの日。
私も涙を流した一人です。
生涯忘れることはないと思います。
私はパートの仕事をしながら二人の子供を育てる単なる主婦ですが、あの日子供を連れてたまたま実家にいる時に、ニュース速報で中川先生の訃報を知りました。本当に全身の力が抜けて、フローリングの床に倒れ込んでしまい、民主党支持者だった実父に「そんなにショックを受けなくても…」と笑われたのを覚えています。
当時の私は、身内にも友人にも民主党政権の危険性を訴えては理解を得られず、孤独を噛み締めていたネット保守の末端の末端におりましたw
某巨大掲示板の既婚女性板に常駐して、衆議院選挙時には、そこにアップされていたチラシをコピーして置き忘れたりと一人でできる事を模索していたり…二人目を妊娠したりで、デモに参加したりする事もできず、子供を寝かしつけながらのネットが唯一の心の拠り所でした。
あの頃に比べたら、色々な状況は様変わりしたなあとは思いますが、このエントリを読んで、中川先生は今のこの国を、私達を、天国からどう御覧になっているんだろうと考えてしまいました。
そして、移動中にもかかわらず泣けてきてしまってつい私事を書き込ませて頂きました。
乱筆乱文申し訳ありません。
いろんな想いを再度思い出し、奮い立たせてくれる小坪先生に感謝申し上げます。
末端ですがwこれからも応援させて頂きますので、先生も呉々もお身体だけにはお気をつけて日本の為に頑張って下さい!