こうして一人でパタパタと

夜、静かになった家で一人パタパタとキーボードを叩いていると、ああ良い時間だなと思う。

 

特に今みたいに、全然書くことも、書こうと思っていることもなく画面に向かっているときが一番良い。真っ白な画面を見て、自由だ、と思う。これから何を書いたっていいんだ。

そしてとりあえず手を動かす。どんな文章が出てくるのかを見てみる。初めから分かっていて決まってることを書くなんて面白くない。

 

一体自分は何を書くんだろうと思って見る。

 

書きながら考え、そうして書かれた文章によってまた考える。その結果として、自分が考えていたことを知る。

しかもそれからまた自分が書いたものによって新しく自分の考えも変わっていく。

どこにも自分がいないような、 まるで文章によって事後的に自分が作られていくような、そんな不思議な感覚がある。

 

本当に何かを生成しながら書いているときはそういう感覚になる。

 

文章を書く前にはいなかった自分が、文章を書いたあとにはいる。

そして出来上がった文章を見ると、まるで書く前からそのように考えていた自分がいたように見える。でも実際にはそんな自分はいない。

それが事後的に自分が作られていくということだ。

 

それが面白い。

そして事実として、私たちのあり方というのはそういうものなのだ。

 

構造主義者とかポスト構造主義者とか言われる人たちは、偉かったんだなぁと思う。

そしてこれは仏教の考え方とも親和性が高い。

確固たる自分というものはなく、すべてはまわりのものによって成り立っている。その時その時、その場その場でまわりから成り立たされている。その時その時、その場その場の生成があるだけ。

今ここがあるだけ。

 

今があるって、素晴らしい。

さあ今日もぐっすりと寝よう。