どうも、はろーぐっばい(@jubenonz)です。
本日は、巨人片岡治大引退についてお話していきます。
巨人の片岡治大選手が2017年シーズン限りの引退を発表されました。
巨人・片岡治大(やすゆき)内野手(34)が、今季限りでの現役引退を決意したことが30日、分かった。近日中に正式表明する。
2014年からの巨人移籍後は年々試合出場数を減らして126⇒113⇒32。
度重なる怪我の影響で2017年シーズンの試合出場はわずか0。
34歳の若さであまりにも早過ぎる引退となりました。
私にとって片岡選手はもう一度野球の楽しさを教えてくれた選手。
今もこうして野球を楽しめているのは片岡選手のおかげです。
そこで今日は片岡選手の入団から引退までを見てきた西武ファンの私の思いを語っていきます。
※片岡選手はプロ入り時の登録名が片岡易之、2013年シーズンから片岡治大となっています。
本記事では2017年の登録名・片岡治大に統一しております。
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片岡治大とは
引用:http://www.seibulions.jp/news/detail/2924.html
【基本プロフィール】
生年月日 1983年2月17日
出身地 千葉県千葉市花見川区
身長 176㎝
所属 宇都宮学園高等学校⇒東京ガス⇒西武ライオンズ⇒読売ジャイアンツ
ポジション 二塁手、遊撃手、三塁手(右投右打)
高校3年生時に宇都宮学園高校(現:文星芸術大学附属高等学校)で甲子園に出場。
高校卒業後は東京ガスに入社。
2004年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから3巡目の指名を受け入団。
背番号は7に決定。
ルーキーイヤーの2005年から出場機会に恵まれ、徐々に頭角を表す。
2007年には自身初の盗塁王(38盗塁)タイトルを獲得。
2008年は1番打者として活躍し、最多安打と盗塁王のタイトルを獲得。
オールスターゲームに初出場し、自身初のベストナインにも輝く。
入団以来初のリーグ優勝、日本一、アジアシリーズ制覇に貢献する。
2009年に行われた第二回WBCのメンバーに選出。
大会1位の4盗塁を決めて、侍ジャパンの世界一連覇に貢献。
それ以降も西武の不動のレギュラーとして活躍し、2007~2010年にかけて4年連続盗塁王。
2011~2013年は相次ぐ怪我の影響で3年連続二桁試合出場(86⇒52⇒72)、規定打席未達と苦しいシーズンを送る。
2013年シーズンには登録名を片岡治大に変更して、再起を図った。
2013年オフ、FA権を行使して読売ジャイアンツ(巨人)への移籍。
憧れの原辰徳監督が背負っていた背番号8を着けることとなった。
移籍初年度の2014年は二塁手のレギュラーに定着。
4年ぶりに規定打席に到達し、チームのリーグ3連覇に貢献。
だが、2015年以降はまたも怪我で故障離脱が続き、規定打席に到達することはなかった。
2017年の9月30日に2017年シーズンをもっての引退が発表された。
※2017年シーズンの試合出場は0。
片岡治大選手のプロ13年間と私の思い出
プロ入団時
私の片岡選手への第一印象はどちらかというとネガティブなものでした。
理由は私が大好きだった松井稼頭央選手の背番号7を継承したからです。
西武の歴代背番号「7」は豊田泰光、石毛宏典、松井稼頭央選手らが背負ったチームリーダー兼遊撃手の背番号。
それをなんの実績もないドラフト3巡目のルーキーがいきなり背負うことに反発心を持ちました。
加えて当時中学生だった私は本気で松井稼頭央選手の背番号は自分が受け継ぐと考えていたので、「俺の背番号をとられた」という思ったのです(完全なる勘違い)。
そのため、片岡選手に対して勝手に嫌悪感を抱いていました。
歴代最高のショート&スイッチヒッター!松井稼頭央伝説ベスト32
2007年に初の盗塁王
そんな私の勝手な嫌悪感を吹き飛ばす活躍を見せた片岡選手。
ルーキーイヤーから一軍での出場機会を得ました。
2007年には自身初の盗塁獲得。
当時の西武は黄金野球時代の緻密な野球は影を潜め、大雑把な野球が目立つようになっていました。
特に内野手の守備は崩壊状態。
そんな中で片岡選手は広い守備範囲と堅守を発揮。
リーグ二塁手としてトップの守備率.993を記録。
失策数はわずかに5個。
犠打もリーグ2位の35個を記録し、つなぎ役としても活躍。
西武黄金時代の辻発彦選手や前レギュラーの高木浩之選手のような渋い二塁手として存在感を発揮した年でした。
この頃から私の中で、片岡選手に対する高い期待が生まれていました。
黄金時代を知る辻発彦新監督がもたらした3つのこと 常勝西武復活へ
伝説の2008年
引用:https://baseballking.jp/ns/column/96349
2008年に就任した渡辺久信新監督は前年の盗塁王である片岡選手を1番に抜擢。
片岡選手本来の積極性や高い走塁技術に期待してのものでした。
この起用が見事にはまり、片岡選手は不動のリードオフマンとしてチームを牽引。
5月の試合で前年度のリーグチャンピョンである日本ハム戦でダルビッシュ有投手からサヨナラ打を放ち、チームの開幕スタートに貢献しました。
実は4月の試合で勝負どころで牽制アウトになっていた片岡選手。
そんな片岡選手に対して、渡辺監督は「お前だからあの状況を作り出せた」と片岡選手をフォロー。
その監督の信頼に応えたい気持ちが責任感に変わり、片岡選手を成長させたのです。
この年は北京オリンピックが開催されたため、同僚の中島裕之選手がシーズン途中に離脱。
その間、片岡選手がたまに遊撃手を務めたのですが、その守備に惚れ惚れさせられました(普段中島選手の守備を見ていたのもあって...)。
「何をやらせても上手い」、天性の野球センスを感じさせられました。
最終的にこの年は栗山巧選手と1・2番コンビを組み、共に最多安打タイトルを獲得。
球界屈指の選球眼とイケメン 埼玉西武ライオンズの精神的支柱栗山巧選手
盗塁数は50個にまで達し二年連続の盗塁王を獲得。
パ・リーグの50盗塁以上は1997年の松井稼頭央と小坂誠以来の快挙。
完全に背番号7の前任者である松井稼頭央と肩を並べたのです。
シーズン終盤からは中村剛也選手が4番に座り、「片岡・栗山・中島・中村」の1~4番が結成されました。
この時の4人の平均年齢が約25歳。
西武ファンの誰もが西武黄金時代の再来を予感させられた年でもありました。
おかわり君こと西武中村剛也選手は平成日本プロ野球最高のホームラン打者
日本シリーズでは巨人と第7戦までもつれる争いの末に日本シリーズ制覇。
第7戦の1点ビハインドで見せた伝説の走塁は球史に名を残すプレイとなりました。
勝てば日本一、負ければ終了の第七戦の一点ビハインドの8回表
先頭デッドボール→ガッツポーズ→次打者の一球目に2塁へ盗塁→送りバントで3塁へ進塁→ボテボテの内野ゴロの瞬間にギャンブルスタートで同点のホームイン
私が約20年間埼玉西武ライオンズファンの理由 好きなものは好きだ
片岡の盗塁~ゴロゴー 1人で1点をもぎとる 2008年日本シリーズ
この時の片岡選手のプレイに興奮したことを今でも鮮明に覚えています。
最終的にMVPは2勝の岸孝之投手、敢闘賞は殊勲打の平尾博嗣選手、シリーズ通して活躍した中島裕之選手が選出されました。
楽天岸孝之選手への心無いブーイングに対する西武ファンの私が思うこと
日本シリーズでは7試合全てで安打を放ち、5盗塁を記録。
第一戦の9回のピンチでセンターに抜けようかというあたりを好捕するなど、守りでも好守備を連発した片岡選手は表彰されませんでした。
このことに、江夏豊氏が「野球をわかっていない」と当時の連載誌上でコメントしていたのを今でも覚えています。
私も片岡選手なくして日本一はなかったと思います。
実は大ファンの松井稼頭央選手が2004年に西武退団、私自身も高校生になって色々と忙しくなったこともあり、前年まで私の西武熱は冷めていっていました。
しかし、この時の片岡選手のプレイを見て、「私は改めて西武ファンである」ことを再認識させられました。
片岡選手がいてくれたからこそ、今もこうして西武ファンとして日々野球を楽しめているのです。
片岡選手には感謝してもしきれません。
WBCで見せた世界に通じる盗塁技術
引用:http://news.livedoor.com/article/image_detail/11242894/?img_id=9977022
日本シリーズを制した勢いそのままに、片岡選手はWBCの日本代表に選出。
2008年のオフにはイチロー選手が片岡選手を「ファミスタのピノみたい」と称して、快足を称賛。
このイチローが称賛したコメントが放送された「3秒に生きる」という特集を何度も観ました。
プロ入り後の葛藤や盗塁王になるまでの苦悩など、片岡選手の努力が凝縮された動画でした。
「私が勝手に嫌悪感を抱いて時に、片岡選手はこんなにも血のにじむような努力を積み重ねていたのか」と、片岡選手への感心と同時に自分に罪悪感を感じたのを覚えています。
イチロー選手のコメントを見た後に、片岡選手が中島選手と一緒に嬉しそうにはにかんでいた姿も印象的です。
WBC日本代表のキャンプではイチロー選手と片岡選手がお互いの盗塁について意見を交わすシーンもありました。
その練習光景を観て、私の方が感激で興奮しました。
WBC本戦では二塁手のレギュラーに岩村明憲選手がいたため、片岡選手は代走もしくは三塁手で出場。
大会トップタイの4盗塁を記録。
前年の北京オリンピックでG.G.佐藤選手が慣れないポジションでミスを連発したことで、日本中がサード片岡に不安を抱きましたが、そんな不安はお構いなし。
難しい打球を難なく処理し、ノーエラー。
改めてその野球センスの高さを証明しました。
私が一番印象に残っているのは決勝の韓国戦。
同点の7回表、先頭打者で出塁するとすかさず盗塁。
その後イチロー選手がバントヒットを決めて、中島選手のタイムリーで勝ち越し点を奪いました。
西武コンビがイチロー選手と連携して点を取る。
こんなプレイを見れる日が来るなんて、と感動したことを覚えています。
3選手とも素晴らしいプレイでしたが、やはり一番驚かされたのが片岡選手。
決勝の大事な局面の無死1塁で打者・イチロー。
絶対にアウトになってはいけないこの局面で迷わずスタートを切って盗塁を成功させるとは。
強心臓と技術があってこそのビックプレーでした。
日本は一時同点に追いつかれた結果、イチロー選手の伝説のタイムリーで勝ち越し、見後世界一。
実はイチロー選手がタイムリーを打つ前に1死1・3塁で片岡選手に打席がまわってきました。
右のサイドスローの林昌勇(イムチャンヨン)投手だったため、左の川崎宗則選手が代打に送られましたが、私はそのまま片岡選手でも打っていたと思います。
それは、片岡選手には大一番で仕事が出来る天性の野球勘と実力があったからです。
もしあのまま片岡選手が打席にまわっていたら、「イチローの伝説のタイムリー」は「片岡の伝説のタイムリー」に変わっていたかもしれません。
4連続盗塁王 ライオンズの歴史に残る快足
引用:http://number.bunshun.jp/articles/-/415739
2009年のWBC以降もチームのリードオフマンとして活躍。
2007~2010年まで4年連続で盗塁王のタイトルを獲得。
低打率とポップフライなどで1番向きでないとする声もありましたが、私は片岡選手以外に一番に適任の選手はいないと思っていました。
2番打者で細かい打撃を要求すれば、本来の積極性が失われます。
下位打線ではモチベーションを損なう可能性もありますし。
やはり、一番打者としてチームに勢いをもたらす役割こそが片岡選手に合った適役だったように思います。
度重なる故障
西武時代晩年の2011~2013年は相次ぐ故障に泣かされました。
左肩、右肩を亜脱臼、右手首、左膝裏など満身創痍の状態が続きました。
3年連続二桁試合出場(86⇒52⇒72)、規定打席未達。
代名詞の盗塁も22⇒8⇒9と減少していきました。
2012年には盗塁成功率が.533(8盗塁7盗塁死)と良い時とは比べ物にならない成績。
プレイしている表情を見ていても曇りがちで、痛みをこらえているのがわかりました。
新聞に掲載されるコメントもネガティブなものが多く、相当思いつめていることが伝わってきました。
もう一度フルシーズンを全力でグラウンドを駆け回る姿を見たいと思っていましたが...。
巨人へのFA移籍
引用:https://www.nikkansports.com/baseball/news/1462467.html
2013年オフ、片岡選手はFAでの巨人移籍を発表しました。
2012年に浅村栄斗選手が二塁手で56試合に出場。
2013年にも10試合、2014年から正式にコンバートされました。
しかし、西武側はあくまで片岡選手を二塁手のレギュラーとして考えていました。
その証拠に2013年の秋季キャンプで浅村選手は三塁手の練習を行っていたのです。
ただ、片岡選手が下した決断は新天地への移籍。
西武から提示された再契約金なしの現状維持(9500万円)の単年契約と環境の変化を求めた末の決断となりました。
FA交渉中も西武への誠意を見せていただけに、残留を期待したのですが...。
古巣に対してきっちりケジメをつけた片岡の行動もさることながら、球団内で再評価されたのが巨人、楽天、オリックスと行ったFA交渉時の片岡の服装だった。球団関係者は「3球団全ての交渉でヤス(片岡)は球団のオフィシャルスーツとネクタイで臨んでいたでしょ。あれで彼を見直した。チームを変わる思いの中にはいろいろなことがあったのだろうけど、決断するまでは西武の選手ときっちりケジメをつけていた態度は立派だった」とぽつり。
歴代西武選手のFA移籍の中で、個人的に一番悲しい移籍となりました。
楽天岸孝之選手への心無いブーイングに対する西武ファンの私が思うこと
巨人移籍後も存在感を発揮。
2014年には両リーグトップのUZRを記録。
盗塁王争いまではいきませんでしたが、2014と2015年は2年連続で20盗塁以上。
通算300盗塁を記録するなど、攻守に健在っぷりを見せました。
偶然かもしれませんが、片岡選手移籍後の3年間で西武は連続でBクラスに転落。
チームに勢いをもたらし、流れを変えられる片岡選手不在が古巣西武に与えた影響は少なくなかったでしょう。
現在の西武ライオンズも良い選手が多いですが、流れを大きく変えられる選手が見当たりません。
片岡選手の退団はチームにとって本当に痛かったなと、移籍した後にまざまざと痛感させられました。
電撃現役引退発表
引用:【プロ野球】巨人・片岡が現役引退を表明 07年から4年連続盗塁王 - 産経ニュース
2017年シーズンの片岡選手は怪我が相次ぎ、1軍出場どころか2軍の試合も出場できない苦しい状態が続きました。
右膝を中心に太ももなどを痛め、思うように活躍できない日々。
何度も折られた心は限界まできていました。
「希望を持ってリハビリを重ねてきたんですけど、なかなか思うような動きができずに、何回も心を折られたので、このタイミングで身を引いた方がいいのかなと思いました。自分の心がみんなと同じ方向にいかなくなった」。淡々とした口調の中に、悔しさがにじんだ。
引退会見では「まだ、悔しさの方が大きいです」と漏らした片岡選手。
もう一回走るためへの思いはついに届くことはありませんでした。
片岡 もう1度、1軍のグラウンドに立ちたいと思ってやってきたので、悔しいです。応援してくれた方に恩返しできなかったことが心残りです。最後にもう1回、走りたかった。
その心にはまだまだ選手としてプレイしたかった思いが伝わってきました。
ただ、まだプレイしたい思いとは裏腹に身体は限界。
かつての同僚涌井選手には辛い胸の内をを吐露したそうです。
私が野球を見始めた時のライオンズの二遊間は高木浩之&松井稼頭央。
2017年現在は浅村栄斗&源田壮亮。
それらの名二遊間コンビに負けていないのが片岡易之&中島裕之。
閑古鳥が鳴いていた西武ドームを満員にした”華”は歴代のライオンズの中でも屈指のコンビでした。
話が少し逸れますが、高木浩之選手の引退試合で共に戦った西口文也投手がコメントを残しました。
抜ける、と思った打球を掠め取るのが実に上手い男だった。
決して恵まれた体躯ではないが、野球を愛する心は誰にも負けなかった。
ライオンズの二塁手らしい、いぶし銀が今シーズンでユニフォームを脱ぐ。高木浩之
僕はその男を忘れない。
そしてその男の新たな門出にエールを送る。西口 文也
きっと涌井投手も何度も「抜ける」と思った打球を片岡選手に掠め取ってもらったのでしょう。
そんなエースと中心選手の間には厚い信頼関係と固い絆があったに違いありません。
片岡選手の今後は未定ですが、私の気持ちはかつての西口選手と同じ。
片岡選手のことを忘れませんし、新たな門出にエールを送ります。
引退危機!? 不調が続く現役西武OB選手7名の今を追ってみた 松坂、松井、片岡...
片岡治大選手の通算成績
【通算成績】※()内は2017/10/3時点のNPB歴代順位
- 出場試合:1208
- 安打:1174
- 盗塁:320(25)
- 盗塁成功率:.773
- 犠打:222(29)
【主な獲得タイトル】
- ベストナイン:1回 (2008年)
- 最多安打:1回 (2008年)
- 盗塁王:4回 (2007年 - 2010年)
- 月間MVP:5回 (1999年4月、2000年8月、2001年8月、2003年6月、2007年6月)
- オールスターゲームMVP:1回 (2010年 第2戦)
- リーグ優勝:2回 (2008年、2014年)
- 日本一:1回(2008年)
- WBC世界一:(2009年)
まとめ
片岡選手が打席に入る際の登場曲で有名なのは、B'zの「ultra soul」。
最後のultra soulの部分をファンが一緒に歌うのが人気でした。
ただ、個人的に好きだったのは2008年に使用していた湘南乃風の「黄金魂」。
片岡選手の野球人生を実に上手く表現した曲でした。
勝つまで
立ち上がれ 上がれ 恐れずに前へ
走れ 走れ ぶっ倒れるまで
上がれ上がれ 一か八かなら
お前の明日 今よりましか 賭けてみろ 今
立ち上がれ 上がれ 壁ぶち破って
走れ 走れ 転がり続け
上がれ 運命の中で 咲かせ 黄金魂
引用:湘南乃風 「黄金魂」
怪我のリスク承知で仕掛け続けた盗塁。
何度失敗しても、怪我をしても立ち上がり続けた片岡選手。
選手としてはもう立ち上がることはできませんが、第二の人生はこれからです。
また立ち上がって、壁をぶち破って後進の育成に努めてもらえたらと思っています。
まずは13年間本当にお疲れさまでした!
そしてこれからも応援しています。
感動をありがとうございました!
それでは、さようなら!