こんにちは、らくからちゃです。
先週日曜日、ぶらっと近所のアウトレットまでお買い物に行く道すがら、ちょっと変わった野草を見つけました。
妻と二人で、タンポポにしては背が高いね。あれか、放射能の影響か!?(こら)と思いながら、適当にTwitterで聞いてみましたところ、お二人ほどが回答をくれました。
エコノパンクさん、団子ありがとう!たぶん、これだと思います。
わたしの見たのは別名"タンポポモドキ"とも呼ばれる『ブタナ』という植物。花の形はタンポポそっくりなのですが、背の高さはずっと高いヨーロッパから来た外来種なんだとか。見慣れないもんだから、突然変異かな!?と思ったけれども、そうではないようです(安心)。
この歳になってほんと身にしみて思うのは、英語だの会計だのITだのより『身近な植物の名前』とか『有名な作品のあらすじ』とか『地元の観光地とその歴史』みたいな、一見するとなんの役にも立たない知識のほうが、人生をより豊かにしてくれる気がするんですよね。
確かに英語や会計やITに関する知識があれば、手に入れられる情報量を増やすことが出来ます。英語が読めれば英文の資料から知識を得られますし、会計が分かれば財務諸表から知識を得られますし、ITが使えればデータから知識を得られます。
決定的に重要な『道具』には違いないけど、道具の扱い方は実際に触りながらじゃないと見につかないことも多いし、必要なレベルに合わせて学ぶ方法は沢山あります。それに『道具の使い方』ばかり学んでも、目の前の課題を解決することが上手になるだけで、それ以上のものは得られないんだよね。
『魚とは何か』を学ぶということ
学生時代、大学では経済学と会計学を勉強してきました。あるとき教授から『大学では、魚の捕まえ方ではなく、魚とは何かを学んでください』と教えられました。
魚の釣り方を知っていれば、食べていくことは出来ますが、環境の変化に対応したり、より多くの魚を得る方法を考えることは出来ないでしょう。『魚とはどういう習性を持った生き物か?』『海流は何故生じるのか?』『古代人はどのように海を渡っていたのか?』そんなことは、すぐに生活を良くするものではありません。
しかし新しい何かを考えるための大きなヒントになります。そうした知識は、えてして日常にあるごく身近なテーマをいかに深く理解していくのか?といったところから得られます。
大げさなことを言うと、学問っていうのは森羅万象に名前をつけていく作業だ。『あれ、この魚は前に捕まえたのとなんかちょっと違うぞ?』と見つけて、新しい名前を与えて、どう異なっているのかの知識を蓄えていく。それは生物学でも、数学でも、歴史学でもたぶん全部同じ。
中には必要に迫られて行ったものもあったんだろう。でもその営みの多くが、先人たちの探究心によって行われてきた。
その膨大な知識の中には『これ、何かの役にたつの?』と思うものもあるかもしれない。でもこの歳で改めて思うことは、『役に立つから学ぶ』のではなく『役に立てるために学ぶ』ことだ。
身近な植物に関する知識も、古代の賢人の書き記した文章も、地元の人々が語り継いできた伝承も、全部が先人達からの贈り物であり、それを活かすも殺すも、今を生きる我々次第。
そんな大層な話じゃなくとも、実際に勉強してきたことで何がいまの生活に役にたってるのか?考えてみれば、簿記だのプログラミングだのは食い扶持を稼ぐためには大いに役にたっているけど、ちょろっと齧った哲学だの歴史だののほうが物事を考えたりするときに役にたっている。もっと言えば、『役に立つってどういうことだ?』と延々と考えてきたことこそが、いま一番『役に立っている』ような気もする。
ほら、ヒストリエでエウメネスさんも言ってたじゃん。歴史は役に立つって。
でもエウメネスさんを見ていて思ったのは、やっぱり『役に立つ/立たない』よりも、どうしたら探究心を高められるのか?が大事なような気がするなあ。
哲学、フィロソフィー、という言葉は『知識を愛する』という言葉に由来するそうな。学ぶ側も楽しみながらのほうが良いけれど、伝える側も『まあ役に立つかどうかはわからないけど、楽しいから聞いていってよ!』と出来なきゃダメだよね。
そんな風に、ブログが書けたら良いなあと思う今日このごろでございます。
ではでは、今日はこのへんで。