珍しく世間で話題の本を読みました。菅野完『日本会議の研究』です。たいへん面白い本で、「生長の家」系の右派学生運動関係者が、その運動を継続・組織化して「日本会議」へ至り、そんな狭いインナーサークルが現政権を左右してしまっている、そんな状況がつぶさに述べられています。(続く)
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(承前)日本会議の本質はミソジニー、これは大いに腑に落ちました。『日本会議の研究』は、日本会議の本質が「一群の人々」の策動に過ぎなくて、それが政権を左右することを問題視しています。しかし小生には、そんな政権が消極的にせよかなりの支持をされている理由が疑問だったのですが、(続く)
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(承前)複雑化・高度化する社会の中で安楽を求めた男どもが、ミソジニーに走ってそれを正当化しようと躍起になっていた、ということであれば、歴史的に先例が存在しているから納得できます。それは第一次グローバリゼーションとも呼ばれる、19世紀での西洋でのことでした。(続く)
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(承前)19世紀西欧のミソジニーについては、ダイクストラ『倒錯の偶像』という本が、描かれた女性像をめぐり論じています。同書について小生はこれまで、ブログやサイトで紹介してきました。 http://bokukoui.obunko.com/book/book099.html …http://bokukoui.exblog.jp/4834612/
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(承前)その繰り返しで恐縮なのですが、すなわち資本主義社会の圧力に押された男によるミソジニー的な文化状況が19世紀後半から20世紀始めに展開し、そして第一次世界大戦に至った――という話です。これが一度目は悲劇として、二度目は喜劇として起こっているのが現状の我が国ではないかと。(続
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(承前)そして小生が指摘せずにはおられないのは、19世紀末のミソジニー的美術のような文化風潮を現在の日本で見出すべきは、まさしく「萌え」的な表象なのではないかということです。現在のオタクの「フェミ」嫌い、強いものに傾く権威主義などが、それを感じさせるにはおられません。(続く)
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こんな話はツイッターで書くには長すぎるので、近日中に(選挙前に)ブログにまとめておきます。まとめれば、「萌え」好きな「オタク」の一般化というか大衆化は、日本会議的な反動の風潮と軌を一にしているのではないか、それが多少の読書経験から小生が考えていることであります。
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