入院前夜のレイトショー Hidden Figures ドリーム

前回書いたもちおの入院予定日だけれど、当日の朝に電話があって、病院の都合で手術が延期になった。いよいよ明朝入院する。今夜はレイトショーでHidden Figures, 邦題ドリームを見てきた。NASAがロシアと宇宙計画で競争していた時代に計算係として働いていた黒人女性たちの物語だ。

 

120分の映画であわせて40分くらい泣いていた。1/3だ。冒頭に出てくる少女時代のキャサリンを見るなりもう泣いていた。過去に何でもないシーンで泣きまくった映画は「Up! (邦題カールじいさんの空飛ぶ家)」と、「崖の上のポニョ」と「Mr.インクレディブル」がある。

 

このうちMr.インクレディブルがもっとも今回とテーマが重なる映画だった。つまりありのままの自分でいることを国家レベルで規制される事態にどう立ち向かうかということだ。幼いキャサリン、そして黒人として不当な立場を強いられる彼女の両親は、この近年稀にみる突出した才能をどのように守り育てていくのか。期待と不安の入り混じった両親の顔と幼いキャサリン素数を数える真顔を見ているだけで不安と緊張で泣けてきた。

 

もっと若いころに見たらこのような差別解消のために何かしなければと切羽詰まった思いを抱いたかもしれない。子供の頃に見たらヒロインたちのような数学や工学の天才に心から憧れただろう。すっかり大人になり、人生も折り返し地点を過ぎたいまの自分で思うことは、わたしもわたしの人生を、社会的にどう評価されるにせよ、自分の属性と個性を守り育て、貫きながら生きていく勇気を奮い立たせようということだ。

 

マイノリティはマジョリティに張り合っているわけではない

 この映画は目前の差別問題を解消して、しかるのち目下の事案に取り組むという方式、つまり黒人差別を解消してから就労問題に取り組むといった方法で進行しない。彼女たちは「人種差別、女性差別学歴差別と闘った弱者」でも、「歴史的偉業を残そうと奮闘した天才」でもない。目前の問題を解消するために自分の能力を最大限に発揮するさい妨げとなる障害があり、結果的にそれと戦うことになっていく。

 

つい昨日、「フェミニズムとは女性が男性並みの権利を求めることだ」と書いているブログを見た。これは本質的な間違いで、フェミニズムとは女性が人としての権利を取り戻すことである。前述の勘違いをしている人は続けて「しかし男女は違うものであり、男女の待遇の違いは差別ではなく区別である」と論じていた。人としての権利を回復するとは女性が男性のように扱われることではない。黒人が人としての権利を取り戻すとが白人になることではない同じだ。「マイノリティはマジョリティに張り合い、逆らい、対抗している」とマジョリティは考えがちだが、マイノリティはマジョリティと同化することを望んでいるのではなく、並んで隣に立つことを望んでいる。隣に立つことが反逆になる社会がおかしいのだ。

 

黒人として白人が独占する分野に踏み入らないこと、女として男が独占する立場に踏み入らないこと、有色人種として白人用の学校、図書館、水飲み場やバスを避け、白人用のトイレを避けること。彼女たちがこれらの分離政策に反対したのは男性になることを望んでいるからでも、白人扱いしてほしいからではない。そのような不当な差別が持てる能力を発揮するにさいして無益な制限を課し、多岐にわたる現実的な問題を引き起こしているからだ。一方それを強いる側は驚くほど軽々しく気まぐれに制限を課す。引き起こされる問題にはいたって鈍感であり、問題がわが身に降りかかってくるまで対処しようとしない。

 

制限を課す側にとって自らが独占する行為は単なる行為ではなく、特権であり名誉である。それを実現するのに適した人物とはその行為を上手くやれる人物ではなく、名誉を受けるにふさわしい人物なのだ。同様に制限を課す側がマイノリティに押し付ける行為は何故かマイノリティにとっては名誉であり、マジョリティにとっては不名誉なものである。正規雇用は白人にふさわしく、有色人種は能力によらず非正規雇用が適切。高度な数学の問題について見解を述べることは白人かつ男性が請け負うべき名誉であり、有色人種向けに用意された設備を使用することは有色人種にとっては適切で感謝すべきこと。家事と育児は女のしあわせ、男がそれをするのは不名誉といった具合に。

 

こうした特権階級の選民意識が偉業を成し遂げるさいにどれほど足手纏いで鬱陶しく腹立たしいものなのかを示すエピソードは日本の労働者にとっても非常に身近なものであるに違いない。

 

人権回復とは被差別属性を捨て、嫌悪することではない

この映画のヒロインたちはNASAの頂点に立つ天才だけれど、アメリカの学園ホームコメディにありがちな便底眼鏡で髪も梳かさず服装に無頓着な変わり者のドジっ子天才少女の成れの果てとして描かれていない。彼女たちが私生活においてはエキゾチックな美女でもなければ、「女を捨てた変わり種」でもない。彼女たちが私生活においてあくまで普通の黒人女性であり続けたこと、これも非常に大きな注目ポイントだ。つまり「普通の女はNASAで天才的な活躍をすることはないけれど、彼女たちは変わり者で中身は女じゃなく男だった(あるいは名誉男性席に招くにふさわしいトロフィー美女だった)」という巧妙なミソジニー的メッセージが加味された映画ではなかった。

 

若さの盛りを過ぎてなおしあわせな家庭づくりに憧れる女性が、家計のやりくり、子育て、パートナーシップに悩み、褐色の肌とごく平均的なプロポーションによく似合うドレスに身を包み、美しくセットした髪を揺らしながらNASAの第一線で活躍する姿はとても魅力的だった。白人たちの白いシャツと淡色のスーツに囲まれ、ひとり原色のドレスで佇むヒロインはどのシーンでも毅然とした輝きがあった。男好みの女になる必要もなければ、男のようにならなくていい、白人のようである必要もないのだというメッセージが慎重に繰り返されていた。

 

男性中心の社会で人事や管理職にアンケートを取ると淡色、暖色のフェミニンな服装の女性のキャリアは軽んじられる傾向があるという。濃色、寒色のマニッシュな服装で同じ経歴を示すと反応がまったく違う。もちろん同じ経歴を見せれば男性の方が能力の点で信頼できると評価される傾向がある。

 

こうした外見による偏見は人種間でももちろんある。日本人は欧米列強に加わろうとちょんまげを落とし、洋装で西洋文化になじもうと必死になった。サン・テグジュペリは「星の王子さま」に民族衣装を着て耳を傾けられなかった天文学者がスーツ姿で登場するなり信頼されたという皮肉なエピソードを書いた。白人を真似て白人のようになることが白人に認められる道、強者男性のように装い、強者男性のように振舞うことが男社会で受け入れられる道ということだ。

 

こうした点で近年のハリウッド映画に見られる「男勝りなヒロイン」の目白押しにわたしは抵抗がある。淑やかで家庭的であることが女の義務でないのはもちろんだけれど、「男並みに男らしい」女である必要もないからだ。「男なんかに頼らない、ロマンスにも興味がないし、家庭におさまるのはまっぴら!男よりもずっとタフでマッチョでセクシーで…」というヒロイン像は「だから女は、やっぱり女だ」と言われないよう必死な、いわば女らしさフォビアのようなものだと感じていた。

 

「やっとヒロインも国を揺るがす問題に取り組みながらロマンスを楽しめるようになったか」と書いていた人がいたけれど、本当にその通りだ。愛するパートナーとしあわせな家庭を持ちたいと願うことは女の弱さでも人としての弱さでもない。まして男と社会の期待におもねているのでもない。「男と対等に渡り合いたいなら女を捨て、女のしあわせをあきらめて」なんて冗談じゃない。帰るべき居場所にどんな家族が待つかは多様性に富んでほしいけれど*1、愛することも育むことも諦めて、なおかつ大義があれば孤独なんて感じませんと嘯けないと強い女とは認められないなんて押しつけはまっぴらだ。*2

 

ささやかで強烈なレイシズム

黒人差別を描いた映画には衝撃的な暴力や残酷な虐待が描かれることが多いけれど、この映画は最初から最後までそういった場面がない。またレイシズムに凝り固まった悪質な人物も出てこない。つまり無教養で偏見に凝り固まった前時代的な暴力やあからさまな蔑視ではなく、「自分は良識的だ、これは差別ではない」と考えている平均以上の知識と社会的ステイタスを持った現代の上品な人々がいかに無神経に他者の尊厳を踏みにじるかに焦点をあてている。

 

「ヘルプ」ほどではないが、差別的な言動をするのがだいたい白人女性で、リベラルな見方をするのがだいたい白人男性という演出がやや気に食わないが、実際黒人女性に女性同士の連帯ではなく白人としての選民意識をぶつける女性は少なくなかっただろう。でも白人男性のセクハラも相当あったんじゃないの?と思ったが、この映画の肝は黒人差別の陰惨さではなく、こうした問題を是正することができるのだという希望にある。好意的に考えれば感じのいい白人上司を出すことはよいモデルを与えることにもなるのだろう。*3

 

分離政策を差別ではないと言い張り、思い込む人々の言い分はめちゃくちゃだが、そう思えるのはわたしがそうした文化で育っていないからで、実際それが当たり前で育ったら当時を思い出して素直に反省できるかどうかはわからない。疚しさもあるだろうし、自己弁護もしたくなるかもしれない。

 

問題はこうした分離政策、また他者の文化や尊厳を軽んじて同化政策に走ることが現代の日本にどれほどあるのかということだ。外から見れば、また当事者からすれば一目瞭然のこうした差別に果たしてどれほど気が付いているだろうか。*4

 

差別の多くは巧妙に守るべきマナーとして流布されている。これに抗うことは控え目にいっても不穏な空気を醸し出す。それでも自分が自分である以上、抗わなければならない場面は必ずある。マジョリティに目を付けられない生き方を選んで自分を殺すか、目を付けられても自分自身として生きていくか、勇気をもって選ばなければならない。受けのいい差別の解消法なんてない。

 

「しないではいられないことをし続けなさい」

「しないではいられないことをし続けなさい」。これは水木しげるさんの幸福の七ヶ条のひとつだ。ヒロインたちは上司を敵に回し、家族にたしなめられ、国を相手取ってまでしないではいられないことをし続けた。

 

とても勇気のいることだけれど、わたしもそうしたいと思う。しないではいられないことがわたしにはある。やってもやってもやりつくした感じがしないこと、興味がつきないことがある。それで周りとうまくいかないことが何度もあった。外からの圧力もさることながら自分で自分に圧力をかけ、失敗するかもよ?怒られちゃうかもしれないし、嫌われちゃうかもしれないし、それで叩かれちゃうかもよ?と日夜わーわーいう内なる声もある。それでもせずにはいられないことをし続けて、生きていきたいと思った。

 

さしあたってうまくまとまらないままブログを書くことにした。いい映画だった。もちおもたいそう力づけられたそうで、退院したらまた観に行こうと話している。

*1:子供がいる、里子がいる、大人だけ、異性・同性のパートナー、友人、大家族、シェアメイト、etc.

*2:シングルマザーが家族公認でデートを重ね、家庭に恋人を招いてキャッキャウフフするという場面がロマンチックに上品に描かれていたこともよかった!母親は女を捨てろなんてまっぴらだよ!!

*3:本当にああいう人だったらいいけどね!

*4:中国政府がチベットに自主教育を禁じることは不当だと思うのに、日本政府が在日朝鮮人学校を無償化しないことはおかしいと思う人がどれほどいるだろう。