(承前)
マッカーサーでさえわが国の戦争を自存自衛の戦争だと認めるに至った。東京裁判はわが国が侵略戦争を犯したと断じて指導者を死刑に処したものだから、自存自衛の戦争だと認めたということは、マッカーサーが東京裁判を否定したに等しい――と、この証言を好んで持ち出す人々は主張する。
だが、マッカーサーが東京裁判を否定するなどということが現実にあり得るものだろうか。しかも、まだ裁判から数年しか経っておらず、わが国がまだ占領下にあった時期に。
マッカーサーが実際にそう証言したり、書き残したとか、あるいはそう話したのを聞いたという証言者がいるなど、客観的な証拠があると言うのならともかく、ただの「by security」の一言にそこまでの意味を持たせるとは、何とも理解に苦しむ人々である。
以前、『マッカーサー回想記(上・下)』(津島一夫訳、朝日新聞社、1964)を読んでいると、この上院での証言と同様の趣旨を述べている箇所が2つあることに気づいた。
一つは、1937年にフィリピンのケソン大統領(米国統治下の独立準備政府の初代大統領。日本の侵攻により米国に亡命し、1944年客死)と共に日本を訪れたときのこと。
もう一箇所は、日本の敗戦後、占領者として赴任してきたときのこと。
だから、マッカーサーが開戦前のわが国をそのように見ていたことは事実だろう。
では、それに続けて、マッカーサーは、日本が開戦に踏み切ったのは自衛権の行使として当然のことだったとか、米国の経済制裁は誤っていたとか述べているだろうか。
どこにもそんな記述はない。
そして、東京裁判については、『回想記』にはどう記されているだろうか。
判決の宣告後のことを、マッカーサーは次のように述べている。
「この悲劇的な罪のつぐない」を象徴として「戦争がいかに徹底して無益であるかを知り」「すべての国が戦争を放棄することを祈る」と言うのだから、彼らのようになりたくなかったら、我らの世界秩序に対して軍事的に挑戦するなどという愚かな行為はすべきではないと警告しているのである。
「平和に対する罪」の存在への疑問など、微塵も見当たらない。
この『回想記』は1964年(マッカーサーの没年)にまとまったかたちで公刊されたものである。それ以前から部分的には発表されていたそうだ。
マッカーサーは、最高司令官を解任されて帰国した後、1952年の大統領選挙に共和党から立候補しようとした。しかし支持は広がらず、アイゼンハワーに敗れた。この回想記が書かれた頃には、もはや政治的野心を燃やす立場にはなかった。東京裁判に批判的であれば、それを示すことに何ら差しさわりはなかっただろう。
にもかかわらず、東京裁判に対する評価は、判決当時に発表した審査書を引用するにとどめている。
その当時も、晩年においても、マッカーサーの東京裁判への評価が変わっていなかったことがうかがえる。
マッカーサーが東京裁判を否定したというのは、「by security」の一言を過剰に曲解して願望を上乗せした、一部日本人による単なるヨタ話にすぎない。
ちなみにマッカーサーは、復讐劇として評判の悪い、山下奉之と本間雅晴の両将軍の戦犯裁判についても、『回想記』では東京裁判と同様に正当性を主張している。
(続く)
マッカーサーでさえわが国の戦争を自存自衛の戦争だと認めるに至った。東京裁判はわが国が侵略戦争を犯したと断じて指導者を死刑に処したものだから、自存自衛の戦争だと認めたということは、マッカーサーが東京裁判を否定したに等しい――と、この証言を好んで持ち出す人々は主張する。
だが、マッカーサーが東京裁判を否定するなどということが現実にあり得るものだろうか。しかも、まだ裁判から数年しか経っておらず、わが国がまだ占領下にあった時期に。
マッカーサーが実際にそう証言したり、書き残したとか、あるいはそう話したのを聞いたという証言者がいるなど、客観的な証拠があると言うのならともかく、ただの「by security」の一言にそこまでの意味を持たせるとは、何とも理解に苦しむ人々である。
以前、『マッカーサー回想記(上・下)』(津島一夫訳、朝日新聞社、1964)を読んでいると、この上院での証言と同様の趣旨を述べている箇所が2つあることに気づいた。
一つは、1937年にフィリピンのケソン大統領(米国統治下の独立準備政府の初代大統領。日本の侵攻により米国に亡命し、1944年客死)と共に日本を訪れたときのこと。
一九三七年、私はケソンに同行して日本、米国、およびメキシコを訪れた。日本は国をあげて戦争熱にうかされていた。中国への日本の侵入は進み、経済的な要求はますます日本を前へかり立てていた。日本が抱えている問題は、一部は環境、一部は産業生産国として独自な発展をとげていたことに由因するものだった。日本は量質ともにすぐれた労働力と世界第一級の工場をもっていたが、せまい四つの島にとじ込められて天然資源に不足していた。日本は砂糖がなく、そこで台湾を取った。鉄のためには、満州を取った。硬炭と木材を手に入れるためには、中国に侵入した。また国防のためには、朝鮮を取った。
こういった諸国の産物なしには、日本の産業はマヒし、何百万という労働者が職を失い、それから生じる経済破綻は革命をも起こしかねなかったのだ。しかし、日本はまだマラヤのもつニッケルと鉱物、オランダ領東インド諸島の石油とゴム、ビルマとシャム(タイ)の米と綿花を欠いていた。日本が必要とあれば武力を使ってでも日本の完全支配下の経済圏をうち立てようとしていることは、一目して明らかだった。(上巻、p.171)
もう一箇所は、日本の敗戦後、占領者として赴任してきたときのこと。
日本は重要な天然資源をほとんどもたず、主として国民の節約と勤勉によって過去一世紀の間繁栄を保ってきた。日本人は労働の尊厳とでもいおうか、つまり人間は怠けて悪だくみをしている時よりは働いて建設している時の方が幸福だということを発見し、実践してきた。その結果は鉄、石炭、鉱物、棉花、石油その他ほとんどあらゆる必需物資に欠けていながら、日本は偉大な産業国家となった。
日本は貿易とバーターでオーストラリアの羊毛、アメリカの棉花、マラヤと東インド諸島のゴム、スズ、石油などの原料品を輸入し、安い労力と輸送力によって欧州や米国の高価な産品を買うことのできなかった何百万というアジアの苦力〔引用者註:「クーリ」とルビ〕階級の市場に供給してきた。多年にわたって日本の基本的な政策と目標は、日本の生産工場に対する物資の供給源を確保することであった。
日本は台湾、朝鮮、満州を吸収し、さらに中国を支配下に引入れようと企てた。そして繁栄した日本は、膨大な利益収入をこれらの外域に注ぎ込んだ。事実、こんどの戦争の誘因の一つは、日本がルーズベルト大統領によってはじめられた経済制裁をおそれたことにあったのである。その当否はともかく、日本は経済制裁によって日本の産業がマヒすることになれば、国内革命が起りかねないと感じ、日本の産業帝国を維持するための基地を手に入れていわゆる“大東亜共栄圏”を永久に確保しようと考えたのである。(下巻、p.128)
だから、マッカーサーが開戦前のわが国をそのように見ていたことは事実だろう。
では、それに続けて、マッカーサーは、日本が開戦に踏み切ったのは自衛権の行使として当然のことだったとか、米国の経済制裁は誤っていたとか述べているだろうか。
どこにもそんな記述はない。
そして、東京裁判については、『回想記』にはどう記されているだろうか。
判決の宣告後のことを、マッカーサーは次のように述べている。
裁判手続きを審査することは私の仕事だったので、私はまず当時東京に代表部をもっていた各連合国の代表国の代表たちに会って、その意見を確かめた。次いで自分でも裁判記録を検討したのち、一九四八年十一月二十四日に次の審査書を発表した。
「私は長い間の公的な生活で、数多くのつらく、さびしく、みじめな任務を果してきたが、極東国際軍事裁判の日本人戦争犯罪者に対する判決を審査することほど、私にとって不愉快きわまるものは、かつてない。
この画期的な裁判は国家活動を託されている者たちに対する国際的な同義の基準を定め法典化することを目的とするものだが、この裁判のもつ人類普遍の基本的な事柄を評価するのは私の目的でなく、また私はそれに必要な卓抜した英知も持ち合わせていない。この問題は人類が歴史以前から解決に苦しんできたものであり、永久に完全には解決されないだろう。
この問題について、私に与えられている当面の義務と、限られた権限の範囲内で、私は次のことだけを申述べたい。関係連合国が詳細にわたって示している諸原則や手続きに照らしてみて、裁判自体の進行には、下された判決に干渉するに足るだけの手落ちは何一つ見当らない。
人間の下す裁決は完全ではあり得ないが、判決を生み出すまでにこれほど周到にあやまちを避ける措置を講じた法的な手続きは、他に考えられない。
多くの人が、この判決と意見を異にするのは避けられない。裁判を構成した博学な裁判官諸氏ですら完全に同じ意見ではなかった。しかし、現在の不完全な文明社会の進化の過程において、この軍事裁判ほどその誠実さを信頼できるものは他にないと信じる。私は第八軍司令官に刑の執行を命じる。
私はそうするに当って、この悲劇的な罪のつぐないが全能の神によって一つの象徴とされ、すべての善意の人が人類の最も残酷な苦しみであり最大の罪である戦争がいかに徹底して無益であるかを知り、やがてはすべての国が戦争を放棄することを祈る。
そのため私は、死刑執行の日に、日本全国のあらゆる宗教、あらゆる宗派のすべての人々があるいは私的に家庭で、あるいは公的な祭壇での祈りで、世界の平和が守られて人類が死滅から救われるよう神の助けと導きを求めることを要請する」
〔中略〕
この私の決定を覆して欲しいという要求が陸軍長官に持込まれたが、私はこの問題では米国の軍人としてよりも、国際的な資格で行動しているのだといって、やはり応じなかった。〔中略〕
裁判中の日本国民の態度は、私にとって意外でもあり、うれしくもあった。国民は裁判手続きが公正で、検事側にも報復的な態度がなかったことに感銘を受けている様子だった。有罪判決ののちに、戦犯自身やその家族たちがわざわざ私にあてて、われわれの公正さを感謝する手紙を寄せた。戦犯裁判の結果、日本側に反感が芽生えたという気配は認められなかった。
(下巻、p.190-192)
「この悲劇的な罪のつぐない」を象徴として「戦争がいかに徹底して無益であるかを知り」「すべての国が戦争を放棄することを祈る」と言うのだから、彼らのようになりたくなかったら、我らの世界秩序に対して軍事的に挑戦するなどという愚かな行為はすべきではないと警告しているのである。
「平和に対する罪」の存在への疑問など、微塵も見当たらない。
この『回想記』は1964年(マッカーサーの没年)にまとまったかたちで公刊されたものである。それ以前から部分的には発表されていたそうだ。
マッカーサーは、最高司令官を解任されて帰国した後、1952年の大統領選挙に共和党から立候補しようとした。しかし支持は広がらず、アイゼンハワーに敗れた。この回想記が書かれた頃には、もはや政治的野心を燃やす立場にはなかった。東京裁判に批判的であれば、それを示すことに何ら差しさわりはなかっただろう。
にもかかわらず、東京裁判に対する評価は、判決当時に発表した審査書を引用するにとどめている。
その当時も、晩年においても、マッカーサーの東京裁判への評価が変わっていなかったことがうかがえる。
マッカーサーが東京裁判を否定したというのは、「by security」の一言を過剰に曲解して願望を上乗せした、一部日本人による単なるヨタ話にすぎない。
ちなみにマッカーサーは、復讐劇として評判の悪い、山下奉之と本間雅晴の両将軍の戦犯裁判についても、『回想記』では東京裁判と同様に正当性を主張している。
(続く)