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山陽電気鉄道が創設したプロ野球チーム「山陽クラウンズ」の選手ら=1951年11月、明石球場(山陽電気鉄道提供)
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山陽電気鉄道が創設したプロ野球チーム「山陽クラウンズ」の選手ら=1951年11月、明石球場(山陽電気鉄道提供)
山陽クラウンズの球団旗(山陽電気鉄道提供)
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山陽クラウンズの球団旗(山陽電気鉄道提供)

 創業110年を迎えた山陽電気鉄道にかつて、プロ野球チームがあった。史上唯一、2軍だけの球団で、その名は「山陽クラウンズ」。ウエスタン・リーグの前身「関西ファーム・リーグ」にも参戦したが、わずか2年半で解散した。10月で解散から65年。関係者の多くが鬼籍に入った。資料も乏しい中、4月に亡くなった元選手の遺族が「父の足跡を知りたい」と情報を集めている。(小西隆久)

 球団創設は1950(昭和25)年5月。当時のデイリースポーツによると、正式名称は「神戸クラブ山陽野球団」で、2軍を持たない球団から委託された選手を育成した。明石球場を本拠地に、兵庫県内外の選手約20人が所属。監督は早稲田大野球部OBの村井竹之助氏らが務めたという。

 エースとしてチームを支えたのが浮田逸郎さん(享年85)。長崎県の佐世保北高を卒業後、福岡県が本拠地の西日本パイレーツに入団したが、50年6月ごろに山陽へ預けられたという。

 当時のプロ2軍についての著作がある野球史ライター松井正さん(37)=東京都=は「セ、パの2リーグ制に移行直後で選手の引き抜きに大金が飛び交う中、山陽は無名の若者や他球団から預かった選手を育成するという隙間産業に目を付けた」と解説する。

 山陽は50年11月、2軍初の公式戦「第1回マイナーチーム選手権大会」に出場。52年4月、阪神など6球団と日本プロ野球初の2軍組織「関西ファーム・リーグ」を結成し、50年には3試合だった対外試合が52年には29試合に増えた。

 一方で「養成した選手を他球団に移籍させる」ことで見込んだ収入はほとんどなかった。山陽電気鉄道100年史によると、「旅客誘致に多少の効果はあったが(中略)経営が成り立たなく」なり、52年10月、わずか2年半で解散した。

 一部の選手は他球団に移り、浮田さんは大洋松竹ロビンス(後の大洋ホエールズ)に移籍。わずか1年で引退したが、母校の野球部監督などを歴任。今年4月、「ひつぎに野球帽を入れてほしい」と言い残して亡くなった。長女の和田祥子さん(57)=大阪府岸和田市=は「野球を心から愛していた」と振り返る。

 一方で、野球人生をあまり語らなかった父が短いプロ生活について書いた手紙が「悔いはない」との言葉で結ばれていたことを最近知ったという。

 当時の情報を集めたいと、数少ない父の知人らを訪ねる日々。解散から65年。歴史に埋もれた小さな球団に、再び光が当たる。

■鉄道会社ゆかりのプロ野球チーム

 阪神電鉄が1935(昭和10)年に「大阪野球倶楽部(くらぶ)」(後の阪神タイガース)を創設したのを皮切りに、阪急が「大阪阪急野球協会」(後の阪急ブレーブス)を、南海も38年に球団を結成。50年ごろには、セ・リーグに阪神、国鉄スワローズ、パ・リーグに阪急、南海、東急フライヤーズ(東急電鉄)、近鉄パールス(近畿日本鉄道)、西鉄クリッパース(西日本鉄道)などが存在した。

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