偏見の問題
日本で外国人を見かけて、道に迷っているようなら、あなたは話しかけますか?
話しかけるとすれば、英語ですか?日本語ですか?
また、幼稚園、小学校などに他の外国人の両親がいたら、
見た目が西洋人なら英語で話しかけますか?
相手が日本語で話しかけてきたとしても英語で話しますか?
日本では、英会話を練習したいという気持ちから、
見た目が西洋人だと、英語で話しかける人が多いと思います。
でも、彼らは日本にいるのだから、
日本語でコミュニケーションをすればいいのではないでしょうか?
もし「英語が公用語だから話せて当たり前」ということが通ってしまうのなら、
どこの国へ行っても、みな当たり前に英語を話すことを期待し、
話せないと教育水準が低いと判断しますか?
しかし、「その国の言葉を話す」という点から考えると、
なぜ英語圏に行ったら、私たちはがんばって英語を話して、
日本にいる西洋人にも
がんばって英語でコミュニケーションをとろうとしているのでしょうか。
疑問に感じることがあります。
また、西洋人=英語を話すというレッテルも考えるところがあります。
私はどうしてもこういうレッテルについて考えることが多くあります。
私の子供が今通っている保育園では、
彼らと同じ言語を離さない人=私は、何もわかっていない
と思われていることが多いようです。
言葉が完璧にわからないから、無知なのでしょうか?
この国の言葉で同じようにしゃべらないから、理解することができないのでしょうか。
これを日本に当てはめて考えてみると、
「日本にいるのだから、
外国からきたあなたは日本語でコミュニケーションをとって当たり前。
努力するのは外国から来たあなたです」という姿勢の人は少ないと思います。
例えば、留学生や職場の同僚で全く日本語を話さない、
英語が母国語の人がいたら、あなたは日本語で日本人に話すようにしますか?
少し自分が英語がわかれば、単語でも伝えてみることでしょう。
人にもよるのかもしれませんが、少なくとも、他の国へ行ったり、
言語を習得することの難しさを知っている人は、
「わからないあなたが努力しなければならない」という態度ではないと思います。
周りの西洋人と見た目が違うアジア人なので、
必要以上に語学学習をがんばって、
コミュニケーションをとらなければとがんばった時もありました。
でも、「○○しなければならない」という
ネガティブなイメージを持ってがんばっても、
自分がなくなりそうでやめました。
今は、やりがいがあって
面白い仕事に打ち込めていることに感謝して、
自分の波動に合った人と付き合うことにしています。
そう思うと、少し楽になりました。
でも、自分の娘には、周りと仲良くして、
広い視野をもった優しい子になってほしいな。。。