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日本社会ではいま「多数派」が一番苦しい? 二極化の先にあるもの

「こうあるべき」という規範がつらい…
小野 美由紀 プロフィール

社会は右肩上がりではないし、みんな不安

小野:話題は変わりますが、先生のご著書リハビリの夜』を読んで驚いたのが、身体障害者の人々がこんなにも「健常者の肉体の動作モデル」に縛られているのか、ということです。

例えば脳性麻痺のような障害のある方の場合、コップ一つ持ち上げるのでも、その人それぞれに心地よい自分なりの動作があるはずですよね。

それなのに、どんな人もリハビリでは最初に「健常者と同じ動き」をゴールとされ、健常者と同じ動作で生活できるように徹底的に「規範」となる動きを矯正させられる。

その規範の重圧たるや、とんでもないと想像したのですが、一方で思ったことが、「これって障害者だけじゃないぞ」と。

健常者も障害者と同じぐらいに社会の規範を重たく肩に乗せて生きてるな、と。

熊谷:おっしゃる通りですね。

小野:「こう言う正常な動作の規範があって、それに合わせろ」と言って育てられるわけですよね。小学生の頃の、体育の「前へならえ」に始まって、箸は右で持つとか、お辞儀をする時の角度とか、道は右側を歩くとか。

社会を営むにはもちろんある程度の統一は必要なことですが、その規範があまりにも過剰になりすぎていて、それにぴったり適合することを全員が求められる。

そういう意味では、「同じ」と言っては乱暴ですけど、障害者も健常者も、誰もが等しく強い「規範」に縛りつけられて生きてるんだなと強く感じています。

熊谷:なるほど。

小野:けれど、実際「多数派」と呼ばれる人たちの中でも、よく見ると置かれている状況はバラバラです。

女性か男性かに始まり、結婚している、していない、子供がいる、いない、介護している、していない……など。それぞれのセグメントによって、強いられている規範が違う。

同じ「多数派」カテゴリに入っていても、背負っている規範は違うのに、それが言語化ないしは可視化しにくいから、お互いの理解が進まないのかな、と。

熊谷:障害者だろうと、健常者だろうと、マイノリティだろうと、マジョリティだろうと、みんな社会の多様な「こうあるべき」という規範に苦しめられている。

規範の内容に注目すると、互いの差異に目が向きますが、規範と現実の乖離で苦しめられているという共通点に目を向けることで、マイノリティとも連帯ができるはず、という風になってくれたらいいんですが、そうなっていない、むしろ自分の不平や不満を否認するような機制が働いているというか。

小野:先生は介助された経験がおありだからこそ、援助する側とされる側というのは時に入れ替わる、というのをご存知だと思うんですよ。

例えば先生が介助者の方に介助の仕方を教えているときは、先生は教える側の立場に立ちますよね。その時は先生が助ける側で、教わる方が助けられる側ですよね。

でも、社会の中では援助する側とされる側というのは常に変わらないものとして決め付けられてしまっているような気がしていて。

熊谷:そうですね。介助の現場に関して言えば、介助者がバーンアウトしたり、精神的に病んでしまったりする背景に「自分たちは援助する側であって弱音を吐く側ではない」という現場の規範がガチガチに彼らを取り巻いて、悪影響を及ぼしているという印象はあります。

私は「介助者が自分たちのことを当事者研究する」というプログラムを行っているんですが、社会的なことでも肉体的なことでも人間関係でも、弱音を吐き出す場所を介助現場に文化として根付かせる必要があると考えています。

それがひいては障害者の側の尊厳につながる。介助者が弱音を吐けない空間では、やはり障害者も身が細る思いがするといいますかね、常に殺気立ってしまいます。

私も小さい頃の原体験で、介助者の目つきや手つきに暴力性が宿る瞬間というのを皮膚感覚で感じ取ってきましたので、そこらへんはとても大事だと思います。

 

小野:介助する側というのはそんなになかなか弱音を吐いたり問題を共有したりする機会が職場でないものなんですか?

熊谷:昔はあまりにも障害者の方の主体性が蔑ろにされていた時代があったので、障害者運動の中にも、その反動として障害者だけがものを言って良くて、介助者はそれを実現するサポートをする立場なんだという思想と実践が展開されてきました。介助者は基本的にはものを言っちゃいけない、障害者がものを言うのだという考えです。

でも、やはり介助者も自分の弱さを表現して出せる場が必要なんじゃないか、それがひいては障害者の安全とか尊厳にも関わるんじゃないかということを、バックラッシュにならないように、慎重に、ぽつりぽつりと言い出す人が出ていている感じです。

小野:介助の現場に限らず、本当はどんな人でも、それぞれの中に「ここは依存したほうがいいな」という部分と、自立できる部分というのがモザイク状にあると思うんです。

でも、そういう人間観があまり許されないというか、「援助されなくてもやっていける側」はずっとそのままであり続けないといけないという硬直した社会観みたいなのがあるからこそ、これまで援助されずにやってこれた側、今まで自分たちで全部やってくることを当然とされてきた側は簡単に弱音を吐けないのかなと思いました。

「社会は右肩上がりではないし、健常で、就労できて、一般的な社会生活を送る人でも、人生のどこかで援助される側になることもあるし、そこから復帰する場合もある。むしろそうなっても当たり前だ」という認識が広まった方が、援助される側にとっても良い結果を生みそうですね。

熊谷:そうですね。どうやって「みんな不安なんだ」というふうに相互理解に持っていけるのかというのが、私の現在のテーマです。

【つづきはこちら:子どもの頃から逃れられない「共依存」という恐ろしい病】