「できること」に対する感覚が乏しい人が多いようだ。
モチベーションの3つの源泉
人間の行動の動機は、すべきこと・やりたいこと・できることの3つだといわれる。
3つが重ならないとモチベーションが生まれないというのが定説である。
レールの上での原動力
さて、日本の教育は「詰込み型」と揶揄されることが多い。
あらかじめ定められた内容をひたすら習得していく教育で、そこに学び手の意思はあまり介在しない。
世間のいう「すべきこと」であるというのが主たる原動力であり、やりたくない・できないという人は脱落していく。
そして、大学受験のころからは「どの大学に行きたいか」というやりたい要素が主たる原動力に置き換わる。
大学受験における原動力の選出ミス
ここで興味深いのは、大学入試という「できるかどうか」の選抜に「やりたいかどうか」という基準で挑んでいるところである。
自分ならどこに受かるだろうか?という疑問でスクリーニングをかけるのが自然だろうに、なぜかどの大学に行きたいのかによって受験校が決まっていくのである。
肌感覚だが、全国の高校生の2~3割くらい早稲田か慶應が第一志望なのではないだろうか。合格するのは主に第一志望ではない人たちで、人口の2%くらいなのだが。*1
受かりそうな大学を集中して対策すれば、地元の国立大くらいには受かるはずなのに、なぜか早慶の対策に始終した結果、私立や公立の無名校に進学するという現象が生じる。
就職活動での「やりたい」原動力
就職活動も同じだ。
今もそうかは知らないが、私が就職活動をしていたころは外資系金融機関や総合商社が人気だった。
東大や早慶の学生が口をそろえて「三菱商事に行きたい」「ゴールドマン・サックスに行きたい」と言っていたように思う。もちろん、ゴールドマンなら数十人、三菱商事でも百数十人しか採用枠はない。
どこでなら活躍できるか?といったできるファクターではなく、入社したいというできるファクターが先行していたようである。
大学受験と同じように、自分に向いている職場を選べばあっさり内定を獲得できるはずなのに、なぜか「やりたい」要素でアプライして全滅するというケースが多かった。
「やりたい」は高校生の部活動が源泉か
さて、下記の記事を読んで違和感を覚えた。
この記事で垣間見える「自分たちがやりたいから周囲に我慢させる」といった発想がどうにも理解できない。
どうしても音楽をやりたいならホールのある学校に行けばいいし、長野なら騒音が敷地内で収まるような広い学校もあるだろう。
そうでない学校がわざわざ吹奏楽部を持つ理由がわからない。
吹奏楽部がなくても、サッカーでも野球でも天文部でも手芸部でも、いくらでも入る部活動はあるはずだ。
あたかも「我慢しています」というような発想になっているのがおかしい。少しでも楽器に触れている時点で、むしろ無理を言ってやらせてもらっているくらいの認識が妥当だろう。
上記の記事の最大の問題点
この記事に非常に問題のある一文が含まれていたので、今回のテーマとは無関係だが補足したい。
住民全員が苦情を言っているのではなく、実は少数の人だけだということがわかりました
まず第一に、少数だから問題がないというのは非常に危険な発想であり、少数民族や障害者への差別などは基本的にこの発想に由来する。
たとえば性差別においても、性犯罪被害者の男性や長期間勤続する女性が少ないから、性犯罪や昇進の場面で差別が放置されているという一面があるはずだ。
したがって、少数だから問題ないと考えてしまう生徒には、かなり厳しい指導が必要なはずである。
次に、苦情に対する認識も間違っている。マーケティングで使われるAIDMAというモデルに照らし合わせてみるとわかりやすい。
Attention(注意) Interest(関心) Desire(欲求) Memory(記憶) Action(行動)
これは広告を見てから購買に至るまでを5段階で表現したモデルである。古いモデルなのでいまは参考程度だろうが、かつては強力だったものだ。
先ほどの苦情を言う人というのは、いわばActionの状態にあるのでかなり不満度の高い人たちである。
「なんかうるさいな」というAttentionの段階の人がどれくらいいるかを考えてみてほしい。
たとえば、P&Gのパンテーンを使用するというActionをとっている人の数に対して、パンテーンのCMを見たことがある(と認識している)というAttentionの状態の人数はどれくらいだろうか。
苦情件数が少数であっても、決して無視できるような騒音ではないはずだ。
日本にはもっと「できる」ファクターの教育が必要
部活動だけに由来するものではないだろうが、日本の教育は「すべき」と「やりたい」に偏っているように思う。
生徒1人1人のできることにもフォーカスしたほうが良い。人生は基本的に、できることのうちで最もやりたいことを選択するという構造だ。
できることが少なければ選択肢は狭まるから、まずはできることを増やすのが先決である。
やりたいことをとりあえずやって、結局できないというのは全く意味がない。せいぜい1回失敗すれば十分なくらいシンプルな学びだ。
やりたいことを無理してやらせるという教育(公害を無視して楽器を演奏する、明らかに受からない大学を目指す)は、生徒の将来を狭めているに過ぎない。
自主性と「できる」ファクター
なぜかはわからないが、日本の学生は自主性が乏しいといわれる。自分で考えて行動できないのだそうだ。
そのためか、最近の教育においては「君は何がしたいの?」を幼いころから考えさせるべきだというような風潮がある。
しかし、実際にはそうではない。夢や目標がないのではなく、実現させられそうな夢や目標が見つからないのである。
自主性というきれいな言葉で包んで「やりたいこと」を追求しても何も変わりはしない。
自主性がないことにされている子供の多くは、自分にできることを探す練習が足りていないのである。
*1:かといって、これらの受験生が「早慶を目指していればそこそこのところに受かるでしょ」と考えているわけではない。他方の早慶に入学する受験生は「未練を残さないために東大を受けるけど、ダメなら早慶で十分」と考えがちなのに。