いろいろなところから拾ってみました。随時更新しています。
夏目漱石
晩には神楽坂の縁日へ出かけて、秋草を二鉢三鉢買ってきて、露の下りる軒の外へ並べて置いた。夜は深く空は高かった。星の色は濃く繁く光った。『それから』
秋晴と云って、この頃は東京の空も田舎のように深く見える。こう云う空の下に生きていると思うだけでも頭は明確(はっきり)する。その上、野へ出れば申し分はない。気が伸び伸びして魂が大空程の大きさになる。それでいて身体総体が緊(しま)って来る。だらしのない春の長閑さとは違う。三四郎は左右の生垣を眺めながら、生まれて始めの東京の秋を嗅ぎつつ遣(や)ってきた。『三四郎』
上から桜の葉が時々落ちてくる。その一つが籠の蓋の上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれて行った。風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。『三四郎』
その頃は日の詰まって行くせわしない秋に、誰も注意を惹かれる肌寒の季節であった。『こころ』
秋の日は鏡の様に濁った池の上に落ちた。中に小さな島がある。島にはただ二本の樹が生えている。青い松と薄い紅葉が具合よく枝を交し合って、箱庭の趣がある。『三四郎』
二人の足の下には小さな河が流れている。秋になって水が落ちたから浅い。角の出た石の上に鶺鴒(せきれい)が一羽とまった位である。三四郎は水の中を眺めていた。水が次第に濁ってくる。見ると河上で百姓が大根を洗っていた。『三四郎』
空の色が段々変わってくる。ただ単調に澄んでいたものの中に、色が幾通りも出来てきた。透き徹る藍の地が消える様に次第に薄くなる。その上に白い雲が鈍く重なりかかる。重なったものが溶けて流れ出す。何処で地が尽きて、何処で雲が始まるか分からないほどに物憂い上を、心持黄な色がふうと一面にかかっている。『三四郎』
白い雲が大きな空を渡っている。空は限りなく晴れて、どこまでも青く澄んでいる上を、綿の光ったような濃い雲がしきりに飛んで行く。風の力が烈しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、青い血が透いて見える程に薄くなる。あるいは吹き散らされながら、塊まって、白く柔らかな針を集めた様に、ささくれ立つ。『三四郎』
太宰治
静かな、秋の午前。日差しの柔らかな秋の庭。『斜陽』
いつか、あれは秋の夕暮れだったと覚えていますが、私とお母さまでその師匠さんの家の前を通り過ぎた時、そのお方がお一人でぼんやりお宅の門の傍に立っていらして、お母さまが自動車の窓からちょっと師匠さんに会釈なさったら、その師匠さんの気難しそうな蒼黒いお顔が、ぱっと紅葉よりも赤くなりました。『斜陽』
私の胸にふうっと、父上と那須野をドライヴして、そうして途中で降りて、その時の秋の野の景色が浮かんできた。萩、なでしこ、りんどう、女郎花などの秋の草花が咲いていた。野葡萄の実は、まだ青かった。『斜陽』
いつか、西片町のおうちの奥庭で、秋のはじめの月のいい夜であったが、私はお母さまと二人でお池の端のあずまやで、お月見をして、狐の嫁入りと舅の嫁入りとは、お嫁のお支度がどう違うか、など笑いながら話し合っているうちに、お母さまは、つとお立ちになってあずまやの傍の萩の白い間から、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」とおっしゃった。『斜陽』
川端康成
宿の女中と二人で布団を釣橋の上に干している。黒く塗った橋板の上で揺れている円い彼女らは私の病める秋の上に落ちた赤い南天のようだ。合歓木(ねむのき)の梢に花の跡が残っている。常山木(こくさぎ)は花を持ったまま一葉二葉が黄ばんでいる。桜の葉も色づき初めている。『白い満月』
別荘の柴折戸を開くと、南天の枝から雨蛙が私の肩に飛び移った。二月ぶりで開く雨戸から早瀬の音が流れ込んだ。川原の石が秋の肌らしく白くなっていた。柱や雨戸が瘦せていた。鮎はもう海に下っていくのだろう。夏よりも湯の匂いが強い。『白い満月』