保毛尾田保毛男は新キャラにリニューアルされるべきだった

 雑記書いてる場合じゃないけど書いちゃうパーソン。

 

 とんねるず石橋貴明扮する保毛尾田保毛男について怒りを表明することをゲイのみならずLGBTQの心の声を代弁する行為だと考えて、勝手に当事者を代表するべきではないといっているのを見た。

 

 弱者を擁護し、弱者の心の声を代弁する。これはつまり「止めなよ、嫌がってるでしょう」である。こうした認識を持つ人は今回のネタに対して一部の性的少数派当事者が怒っていないことを根拠に、部外者である非当事者が怒りを表明するのは僭越で傲慢なことだという。つまり「嫌じゃないっていってる(やつもいる)のに勝手に決めつけるな」だ。しかし槍玉に上げられている当事者が自分に対するバッシングについて何を思い、どのような意見を表明するかということと、それを見ている自分自身がどう思うかは別問題だ。「止めなよ、嫌がってるでしょう」ではなく「止めなよ、それはいじめだろ」だ。

 

 そもそも醜悪に戯画化されたゲイキャラクターに怒りをあらわにすることは弱者の代弁ではなく、自らの立場と信条の表明である。これはあらゆる差別にいえることだけれど、差別やヘイトに反対するとはマイノリティの意見を代弁し、マイノリティを保護することが目的ではない。かつて女性の手を取り、椅子を引き、ドレスと花束をプレゼントして家の奥で守る男性がフェミニストと呼ばれることがあったが、フェミニズムが男性好みの女性を守る運動でないのと同様、あらゆる人権尊重に基づく活動は自分も含めた個々の権利の侵害を断固ゆるさないと表明し、行動を起こすものだ。難しく考えずとも人種、性別、性的志向や社会的立場を偏見に基づいて嘲笑することを不快に感じるのはごく当然のことだろう。

 

 「ゲイをネタにすることを禁じるのはゲイを排除することだ、それこそLGBTQ差別だ」といっている人もいた。要するに「遊んでるだけだろ、なにムキになってるんだ。こいつを仲間外れにすることの方がいじめじゃん」と返してくるわけだけれど、こちらは「どうしてそいつを仲間に入れるときは毎度そいつをいじるネタを仕込まなきゃならないのか」と問うているのである。ろくでなし子に至ってはゲイいじり批判、保毛尾田批判はキモキャラを売りにしている芸人を追い込んでいると擁護なのか逆張りなのか斜め上の平常運転発言をしていたが*1、これは「いじりを止めるといじられキャラの居場所がなくなるじゃん」ということで、いじりという名のいじめを続ける以外に居場所がない現状を追認して何の発展性があるのかと問いたい。
 
 マイノリティが属性によってパターン化されるのは多様化ではなく普遍的な差別である。頭の弱いブロンドの若い女、朴念仁で大食漢な黒人の大男、強欲なユダヤ人といったあからさまな蔑視はもちろん、心優しく清らかな障碍者、淑やかで慎ましい母親といったマジョリティ好みのマイノリティキャラもそうだ。

 

 醜悪に戯画化されたゲイキャラクターが多様性のひとつとして受け止められるのはゲイであること自体が際立った個性とならない文化の中だけだろう。多くの人はヘテロであることを目立った個性だと考えない。愛情と性的志向の在り方は異性愛者であるというだけではひとくくりにできない。ではなぜ同性愛については貧しいパターン認識でわかったような気になるのか。

 

 ハリーポッターシリーズに登場する魔法学校の校長ダンブルドアはゲイだと作者のJ.K.ローリングはTwitterで明かした。それに対してフォロワーから「彼はゲイに見えない」という意見がきた。ローリング姐さんは「それは単に彼が人間に見えるからでは?」と答えた。*2

 ローリングはダンブルドアをキャッチーでステロタイプなゲイキャラクターとして描かなかった。ハリーポッターシリーズに登場するヘテロが多種多様であったのと同様、ダンブルドアの個性はゲイであるというだけで語りつくせるものではなかった。


 フジテレビは30周年記念として昔のパターンを踏襲しつつ新しいギャグをやるのなら、異性愛で頭がいっぱいの醜悪な男性として保毛尾田そっくりな屁手露多屁手雄を出してほしかった。頭の中は女の尻を追いかけることでいっぱい、隠しているつもりでそれがダダ洩れな屁手露多屁手雄のキモさは異性愛を微笑ましく好ましいと思わせるジョークになるかどうか見物だ。おそらく烈火のごとく怒りたち、抗議するものが出るだろう。そのときこそ「社会への皮肉をジョークにすることすらゆるされないとは窮屈な時代になったものだ」とぼやいてみたい。