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2017-09-28
■[経済][政治][哲学] アマルティア・セン『正義のアイディア』
ノーベル経済学賞の受賞者で、狭い意味での経済分野にとどまらず政治哲学などの分野でも積極的な発言を行っているアマルティア・センの政治哲学分野における代表作。
とにかくセンの凄さを感じさせるのが冒頭の謝辞。ジョン・ロールズやケネス・アローからはじまり、ピエロ・スラッファ(ウィトゲンシュタインの後期への転換のきっかけをつくったとされる経済学者)、さらにバーナード・ウィリアムズ、クワイン、ノージック、サンデル、ドウォーキン、デレク・パーフィット、イアン・ハッキング、トマス・ネーゲルといった哲学者に、アンソニー・アトキンソン、ジョージ・アカロフ、アルバート・ハーシュマン、スティグリッツといった経済学者、加えてキャス・サンスティーンの名前まで。ほとんど「20世紀の英米圏学者名鑑」のような趣になっています。
そして、もちろんこれは人脈を自慢するものではなく、著者の思考や知識と本書の扱う内容の広さを反映したものです。
ロールズへの批判というと、平等よりも自由や権利を重んじる立場から別の形の社会契約を描いてい見せたロバート・ノージックや、ロールズの「無知のベール」の考えを「負荷なき個人」という観点から批判したマイケル・サンデルのものなどが有名ですが、センの批判はこれらの批判とはちょっと違います。
ノージックやサンデルの批判が、ロールズの提示する正義は間違っていて、もっと別の正義があるという主張だったのに対して、センの批判は先験的に正義を決めさえすればうまくいくという考え方自体に問題があるというものです。
この本のタイトルは「正義のアイディア」となっていますが、これもセンの「不変の正義理論は存在しないが、現状の不正義を正していくことはできるし重要だ」という考えを表したのものになっています。
センのロールズ批判の根本には、たとえ原初状態があったとしても、そこで一つの正義の原理が選択されればすべてがうまくいくということはありえないという考えがあります。
センは序章で、笛があったとして、それはもっとも貧しい者に与えられるべきか、作った者に与えられるべきか、一番うまく笛を吹くことができる者に与えられるべきかという話を持ち出しています。この話はマイケル・サンデルも『これからの正義の話しをしよう』で、アリストテレスの説明においてこの話を持ち出しており、そこではアリストテレスの考えに沿いながら一番うまく笛を吹くことができる者に与えるべきだという議論を展開しています(おそらくサンデルの考えもこれ)。
ところが、センはそれぞれに根拠があり、「そのうち一つを常に優れたものとして特定することはできない」(48p)と述べています。
つまり、センは正義はそのときどきの比較によらないと導き出せないと考えているのです。
センはインドの法における「ニーティ」と「ニヤーヤ」という2つの正義に関する考えを紹介しています。
ニーティは組織の適切さと行動の正しさを表し、ニヤーヤは実現された正義の包括的概念を表しています(56p)。神聖ローマ皇帝のフェルディナント1世は「世界は滅びようとも正義はなされよ」という言葉を残しましたが、これはこのインドの考えに当てはめるとニーティのみを重視し、ニヤーヤを無視する考えです(57ー58p)。
センは功利主義者ではありませんが、正義において帰結主義が重要だと考えており、実際の帰結を無視したり、あるいは正義の理論を確定させれば必ずよい帰結がもたらされるという考えに反対なのです。
これがこの本の基本的なスタンスで、これをもとにして合理性や自由、人権やケイパビリティ、民主主義といったものを論じていきます。
600ページを超える本でここでの要約は不可能ですが、訳者解説がかなり詳細なので、興味のある人は本屋で訳者解説を読んでみるといいと思います。
やや、繰り返し的な部分もあり、冗長さは否めないのですが、全体的には非常に重要な指摘がいたるところにあります。
個人的にこの本で感心したのは、センが彼の代名詞とも言えるケイパビリティ・アプローチの考えの限界を明解に指摘している点です。
ケイパビリティの考えは、その人が持っている財や収入ではなく、そのひとが「~できる」という機会の平等性に注目したものです。健常者に3万円渡せばちょっとした旅行ができるかもしれないけれど、足の不自由な障害者に3万円渡しても車椅子がなければ出かけられませんし、また、車椅子が利用できる施設などがなければ旅行は難しいでしょう。このときにさまざまな立場の人が「旅行ができる」かどうかに注目するのがケイパビリティ・アプローチです。
しかし、センはこのケイパビリティ・アプローチも万能ではないというのです。
ケイパビリティの考えは、「自由の機会の側面を評価する上で大きなメリットを持っているが、自由の過程の側面を適切に取り扱うことはできない」といいますし、「過程の公正さや公平さについて、あるいは市民が公正な手続きを活用する自由について十分に語ってはくれない」といいます(423ー424p)。
そして、センは乱暴な例として、同じケアを受けた時に女性のほうが男性よりも年齢層ごとの死亡率が低くなることを指摘し、ケイパビリティの平等にしか関心がないならば、男性のハンデキャップを埋めるために男性を優先的にケアするという議論も成り立ってしまうといいます(424p)。
ケイパビリティは重要な考えですが、他の価値観すべてを押しのけて優先されるというものではなく、「正義の理論(もっと一般的には適切な規範的社会選択理論)は、過去の公正と、人びとが享受する本質的機会の平等と効率性の両方に敏感でなければならない」(424p)のです。
ここでの中心的課題は、平等が問題となる複数の次元と関わっている。それらの次元は、例えば、経済的優位性、資源、効用、達成された生活の質、あるいはケイパビリティで何であれ、一つの次元に還元することはできない、平等の要件をただ一つの視点から理解しようとすること(この場合には、ケイパビリティの視点のみから理解すること)に対する私の懐疑は、平等を単一の視点から捉えることに対する、もっと大きな批判の一部である。(425p)
このような部分を見ると、センがこの本でいかに射程が広く、フェアな議論をしているかがわかるのではないでしょうか。
持ち運ぶのが大変ですし、読みやすいという本ではないと思いますが、政治哲学の分野だけではなくもっと広い分野に対して考える基盤のようなものを提供してくれている本だと思います。
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