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“奇跡の惑星”から、ありふれた奇跡へ『系外惑星と太陽系』

 読前・読後で世界を一変せしめるような本をスゴ本と呼ぶのなら、これはまさしくそれ。

 なぜなら、薄々考えてきたことが、エビデンスと共に論証されており、今まで学んできた天文学、地球物理学、生命科学の知識が急速に収束し、「地球外生命はいる」という確信になろうとしているから。同時に、わたしの思考が、いかに地球を中心に囚われていたことに気づかされたから。

 タイトルの「系外惑星」とは、太陽系以外の惑星のこと。ここ数十年の間、この系外惑星が続々と発見されるにつれ、生命活動が可能な惑星(ハビタブル惑星)に対する認識が塗り替えられてきた。かつては、かつては「奇跡的」だったものが、「ありふれた奇跡」になろうとしている。しかも、ハビタブル「惑星」である必要はなく、ハビタブル「衛星」の可能性も示唆されている。

 つまり、「ハビタブル」の条件を考えるにあたり、「太陽系の地球のような惑星」のイメージを壊し、ゼロベースで考え直す。文字通り「生命を宿しうる」ことで再定義し、その条件を適当な惑星の質量・軌道、水、炭素、窒素、エネルギーの供給というように捨象してしまう。すると、太陽系に似た惑星系である必然性はなくなり、地球に似た惑星である必要もなくなる。サイズによっては惑星である必要性もなくなり、衛星でもよくなる。

 そして、相当する質量や軌道という観点であれば、惑星系性理論および観測された系外惑星の軌道分布から予測可能であり、元素およびエネルギーの供給については、惑星大気の観測からある程度の実証を得ることができる。

 昔は、太陽系以外にも惑星があるはずだとして、様々な系外惑星探査が行われてきた。大型望遠鏡を使った探索は1940年代から本格化し、1980年代には観測技術は充分なレベルに達していた。しかし、系外惑星はほとんど発見できなかった。「第二の地球を探せ」というスローガンで、地球に似た系外惑星を探そうとして、(それが見つからなかったが故に)地球は“奇跡の惑星”とされた。

 今は、一定の確度を持ち、予測と検証を繰り返しながら観測を行うことで、系外惑星の発見数は、爆発的といっていいほど激増している。この今昔の境は1995年以降、「ホット・ジュピター」や「エキセントリック・プラネット」と呼ばれる常識外れの惑星が見つかってからだという。いま、まさにパラダイムシフトが起きているのに、気づかぬまま通り過ぎているという感覚。楳図かずおの傑作『わたしは真悟』の「奇跡は誰にでもおきる。だが、おきたことには誰も気づかない」を地で行く感覚なり。

 なぜ、半世紀もの間、系外惑星を発見できなかったのか?

 なぜなら、ホット・ジュピターのような惑星の存在自体が、「想定外」だったからになる。恒星の周囲を、非常に高速で(公転周期4日)周っているガスで覆われた「熱い木星」なんて、想像がつくだろうか? あるいは、彗星のような楕円軌道を描き、灼熱期と極寒期をめまぐるしく繰り返す超巨大サイズの「奇妙な惑星」なんて、完全に常識外れだろう。

 この「常識」こそが、バイアスとなっていたという。つまりこうだ、わたしたちは、太陽系というたった一つのモデルでもって、恒星や惑星を考えようとした。サンプルが1つしかなかったため、惑星形成論とは、太陽系の姿をどのように合理的に説明できるかという議論に等しかったという。太陽系の姿に無意識のうちに囚われ、その「常識」の目で探そうとしていたため、文字通り視野が狭くなっていたのだ。

 著者は、さらにこの「常識」の中心に、キリスト教を中心とした西洋文化を指摘する。地球や生命、宇宙の始まりといった形而上的な問題について、人の考えは、そのバックグラウンドにある文化に影響される傾向がある。「神に選ばれて、キリストが誕生した特別な場所」でなければならない地球は、かつては宇宙の中心とされた。もちろん現代で天動説を信じる人はいないだろうが、太陽系や地球をあるべきモデルとしたがるバイアスは、少なくともわたしの中で、形を変えて生き残っていることが分かった。

 しかし、いったん太陽系モデルから離れて見るならば、その視野は驚くほど広がる。著者は、観測データからも理論モデルからも、ハビタブル・ゾーンに地球サイズに近い惑星が存在する確率は、10%以上はあるという。この銀河系に惑星は充満していると言えるのだ。

 しかも、惑星だけではなく衛星も含めると、その数はもっと大きくなる。ハビタブル・ムーンだ。木星の衛星のエウロパや、土星の衛星のエンケラドスは、表面は凍っているものの、氷の下には液体の海があることはほぼ確実で、そこでの生命の可能性が議論されている。潜ってみたら、微生物が「うじゃうじゃ」いましたと報告されても、驚く反面、やっぱりそうなのかもと思うだろう。

 この感覚は、ここ近年の天文学における発見が、わたしの考え方そのものに影響を与えたのかもしれぬ。見えていないものは、「まだ見つかっていない」可能性を残しているのであり、それは「存在しない」ことと等価ではない。だから、見えていないものについて想像する余白を、常に残しておきたい。

 パラダイムシフトが、まさにわたしの内側で起きているのを自覚した一冊。

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コメント

カール・セーガンの「コスモス」でもその概念が言及されたと記憶しているけど、ドレイクの方程式https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F
というのがありましたね。

「我々の銀河系に存在し人類とコンタクトする可能性のある地球外文明の数を推測」

この方程式のfp ひとつの恒星が惑星系を持つ割合(確率)とne ひとつの恒星系が持つ、生命の存在が可能となる状態の惑星の平均数の数値をより大きく推測することが可能になったということになるでしょうが、セーガンは、確かに地球生命は奇跡的ではあるが、地球外生命体とのコンタクトは時間的なパラメーター(文明の存続期間など)に大きく左右されるようなことを書いていたように記憶します。

(妄言多謝)

投稿: 通りすがり | 2017.09.29 12:51

もちろん現代で天動説を信じる人はいないだろうが

小学校高学年の4割が天動説を信じているという調査や、ロシア人の3割は天動説を信じているという記事もありましたね。

投稿: | 2017.09.29 23:52

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