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社会

貧乏人に「ワークライフバランス」は贅沢品|「女性が輝く社会」のウソとホント

Text by Anne-Marie Slaughter
プリンストン大学教授、ニューアメリカ財団CEO。女性初のプリンストン大学公共政策大学院院長、アメリカ国際法学会長、さらに米国務省政策企画局長を務めた

PHOTO: KIRSTIE TWEED / CORBIS / VCG / GETTY IMAGES

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2012年、米「アトランティック」誌に掲載され、全米で論争を巻き起こした「女性は仕事と家庭を両立できない!?」の筆者が、3年あまりの時を経て女性の活躍について再考した。ヒラリー・クリントンのもとでキャリアを積んだ元米国務省高官が考える「女性が輝く社会」とは。新著『仕事と家庭は両立できない?』よりお届けする。

今、多くのフェミニストにとっての関心はただひとつ。それは、「ガラスの天井」でもなければ「べたべたの床」でもない。「べたべたの床」という言い回しを1990年代のはじめに使ったのは、社会学者のキャサリン・ホワイト・ベルハイドだった。それは、女性が低賃金の仕事から抜け出せず、昇進の望みもない環境を表していた。

女性はほとんどの業種と職種で、階層の壁を破り、上に昇ってきた。政治でも、大学でも、財団でも、その他多くの分野でリーダー的な地位につけるようになった。とはいえ、1990年のはじめから、どの組織でも経営トップの女性比率はほとんど変わっていない。女性リーダー比率の高い産業では女性のトップは20パーセントにのぼり、低い産業では5パーセントにとどまるが、全体としては15パーセントあたりで頭打ちになっている。

今どきのフェミニスト学者や有名人たちは、この停滞を打ち破ろうと、のろしを上げている。二巡目のフェミニスト運動の波から50年が経った今、女の子はなりたいものになれると言われて育つ。そうして、一流大学を優秀な成績で卒業した女子が職場になだれ込む。そんな能力のある女性たちが、仕事を始めてやっと、実際にトップに昇る女性がほとんどいない現実を目にして、不満を募らせるケースはますます増えている。

私もまたそんな女性のひとりで、大人になってからずっとこの問題に目を向けてきた。実際、あのアトランティック誌の記事でも、この問題について特に言葉を割いた。だがあれ以来、トップに昇る女性ばかりに目を向けると、ものの見方が歪んでしまうことにも気づき始めた。

もちろん、女性が経済的、政治的、社会的な力を持ちたいと願う気持ちは、よくわかる。でもそれは、身体のほんの一部に出た症状だけを見て、病名を診断するようなものだ。

この社会で本当の男女平等を目指すなら、すべての女性がおかれた状況に目を向けることが欠かせない。

よくあるパターン


立派な経歴を持つトップの女性だけでなく、視野をその外に広げると、つらい現実が見えてくる。もちろんトップに昇る女性は少なすぎる。だが、底辺から抜けられない女性はその何倍も多い。どちらの数字も悲惨なものだ。フォーチュン500社における女性の役員比率は15パーセント。そして、最低賃金労働者の62パーセントは女性だ。

成人女性の3人に1人は貧困か、貧困ぎりぎりの生活をしている。シングルマザーを見ると、さらにひどい。シングルマザーの3分の2は、昇進の希望のない低賃金の仕事につき、福利厚生もなくフレックス制度の恩恵も受けられない。

こうして問題を大きな視点でとらえたとき、このところ導入されている女性の活躍推進のための制度が、どれほど不充分かがわかる。

これほど多くの女性が社会の底辺にいるのは、どう考えてもおかしい。彼女たちは、怠け者でもなければ、完璧主義でもなければ、自信がないわけでもない。教育を受けた女性にとっては、覚悟のなさや完璧主義や自信のなさがキャリアの障害になるのはわかる。でもそれは、シングルマザーが社会の溝にはまり貧困から抜け出せなくなる理由にはならない。

もちろん、トップの女性と底辺の女性では住む世界が違うし、上に昇れない理由や障害は違って当然、という人もいるだろう。イギリスの経済学者、アリソン・ウルフは、有史以来ほとんどのあいだ、女性は基本的に同じさだめを背負ってきたと言っている。

「金持ちでも貧乏人でも、アイルランド人でもインド人でも、女性なら普通に結婚と子育てを夢見ていた。結婚に成功するか、しないか。子供を生むか、生まないか。女性の一生は、そのふたつにかかっていた」

著書の『XXファクター』に、彼女はそう書いている。今では女性の人生は劇的に多様化し、先ほどのような生き方が共通の経験ではなくなっている、とウルフは唱える。

ウルフの主張に裏付けがないとは言わないが、頂点と底辺の女性についての明らかな事実を見ると、一見正反対の経験の中に、ある共通のパターンが浮かび上がってくる。まるで印象派の絵画のように、近くで見ると小さな点にしか見えないが、少し離れてみると、突然全体像がわかる。ある位置に立つと、その点がパターンになり、たとえば昼食会や花畑といった見慣れた光景が見えてくる。

そのパターンを浮かび上がらせる鍵は、ふたつの補い合う人間の習性にある。ひとつは競争心。みんながそれぞれの利益を追求する社会の中で、自分の利益を求めたいという衝動だ。そしてもうひとつは「思いやり」。他者を自分より優先させようという気持ちだ。男性も女性も、心の中にはこのふたつの衝動がある。脳内のさまざまな信号がどう刺激されているか、その結果のどんな行動が、人類という種の生き残りと発展に役立ったのか?

人類学者、社会学者、心理学者、今では脳神経学者もそれを研究している。私たち人間はお互いに競争し、他人より抜きんでようとする。それが、イノベーションと変革を生み出してきた。半面、人間は社会的な生き物で、充実した人生を送るには人との関係と絆が欠かせない。

実際、赤の他人を思いやる気持ちは人間に特有のもので、「言語と抽象的思考に並んで、思いやりは人間と他の生物を分かつ特徴だ」と人類学者のサラ・ブラファー・ハーディは言っている。思いやりこそ、「人を人間たらしめるもの」なのだ。

では、すべての女性が何に苦労しているかを考えてみよう。それは、競争を尊び、他者を世話(ケア)する人が弱い立場に置かれる制度の中で、競争とケアを両立させることだ。だが、このふたつは同じくらい大切なことで、人間としての生き方に欠かせないものだとしたら、一方だけを不利に置くのは正しいのだろうか?

家族の世話よりもカネを稼ぐ方が価値が高いなんて、どう考えてもおかしい。黒人より白人、ゲイよりストレート、女性より男性が偉いと言うのと同じくらい、おかしい。競争はおカネを生み出す。育児は人を生み出す。

考えてみてほしい。数多くの女性が、育児や家族の世話のため仕事を辞めて収入を失ったとたんに、透明人間になったような気がしたと言っている。52歳の元弁護士、マーブはこう語っていた。

「突然、自分がこの世に存在しなくなったようだった。ほんの半年前まで、検事局で話題の事件に関わっていたのに。ニューヨーク・タイムズに名前が載るほどだった。でも今では何者でもない」

「何者でもない」。言い換えれば、誰かの世話という行為は、収入を生み出す仕事とくらべて生き残りに欠かせないものとは見なされず、価値ある人間としてのアイデンティティが失われてしまうということだ。

頂点と底辺の女性がどちらも経験することがある。それは家族の世話が軽んじられ、差別を受けるということだ。前途有望な若い女性弁護士や銀行員が、子供と夕食を共にするために毎日早目に退社したり、パートタイムで働いたり、しばらく休職して家庭に専念すれば、試合から締め出される。つまり、トップ争いから脱落する。

もし仕事を辞めてしまえば、育児の期間は履歴書の上では黒歴史だ。次に就職活動をするときには、なんとかその穴を埋めようと空しい努力をするか、その部分は説明を避けるしかない。

今度は底辺の女性を考えてみよう。多くはシングルマザーで、ひとりで家計を支えながら家族の世話をするしかない。アメリカのシングルマザーの半分は、年収2万5000ドルに満たない。アメリカのひとり親家庭の貧困率は先進国で最も高く、支援制度は最も弱い 。

こうした統計では、膨大な数の人生が抽象的にぼんやりとしか見えてこない。だから、身近な話をしよう。ラニー・シェールはペンシルバニア州の郊外に住むシングルマザーで、最低賃金で暮らしている。子育てに加えて、雪が続いた2013年の冬に転んでしまったために、ある週に4日仕事を休むことになった。「次の給料は7時間半の分しかないんです。どうやって食べていったらいいかわかりません」。ラニーは地元紙にそう語っていた。

ロードアイランド州のシングルマザー、マリアは工場で働いている。時給は7ドル40セント。息子の病気でシフトを休むと、2週間は仕事に入れない。仕事に戻っても、シフトの時間は短くなる。

「トイレに行く時間さえ自由になりません。トイレは一日2度までと決められています。その上、『どこに行ってたんだ!』『急げ!』と怒鳴られます。ありえない環境です。トイレに行くときも監視されていて、後をつけられてます。『急げ!』『疲れてる暇なんてないぞ』と言われるんです」

マリアはクビになり、9ヵ月も子育て手当がなかった。のちに仕事を見つけ、上司もましになったが、賃金は低く、限られた自由の中で息子を育てている。

私たちの社会は、家計の大黒柱としてのラニーやマリアには価値を置いている。実際、ビル・クリントン大統領が行った福祉政策改革では、シングルマザーが手当を受け取るためには、働きに出ることが条件とされていた。

もちろん、仕事の尊厳と価値を信じていれば、それは当たり前かもしれない。だが、育児や介護に同じ尊厳と価値を置かないのはなぜだろう?

しかも、育児は未来の市民を作り出す仕事なのに? クリントン大統領は、子育てへの投資と新しい政策によって、より多くの女性が働ける社会を目指した。だが、今のアメリカには手ごろな保育園も、幼児教育のシステムも、就学後の学童保育のプログラムもない。

子供が病気になったときに誰でも利用できるような有給休暇の制度もない。だから小さな子供を持つ母親は、あれこれと手を尽くし安定的でもなくあまり頼りにならない人たちの手を借りて、常に応急処置をするしかない。そのことで仕事に大きな差し障りが出るし、貧困から抜け出すことも難しい。

中流層の家族は、常に子育てと仕事の両立に苦しみ、ぎりぎりの毎日を生きている。両立の大変さが彼らを貧困へと押しやり、破産に追いやることもある。『ダブルインカムの罠』の中で、法学者のエリザベス・ウォーレンとアメリア・ウォーレン・チャギは、離婚が破産につながった例を描いている。

大学教育を受けた人事のプロ、ゲイル・プリチャードは、独りの収入だけでは住宅ローンを払いきれなかった 。元夫は養育費をあまり負担していなかった。プリチャードのような例は、数えればきりがない。

「夫のいない中流女性が破産するかどうかは、子供がいるかどうかで決まる」

こうした母親たちは、子供が育ちあがってからもずっと、つけを払い続けることになる。収入のない養育者は年金の対象にならず、その他のセーフティネットの恩恵も受けられない。だから「子供のいる女性は、老人になってから最も貧困になりやすい」と言う。

恵まれた女性は仕事を辞めることもできるし、子供に合わせてより柔軟な働き方に変えることもできる。だがそうすれば、昇進を諦めなければならないし、大学や大学院を出て仕事を始めたときの夢をかなえられないかもしれない。貧しい女性は家計を支えながら子育ての責任も一身に負う。

彼女たちははるかに困窮し、家族を養っていけないかもしれない不安と常に背中合わせでいる。貧困から抜け出す希望も、子供にいい生活を送らせる希望も失ってしまうことも多い。恵まれた女性も貧しい女性も、愛する人の世話をすることのつけを支払わされる。

子育てや介護に価値を置かないことが、問題の根源にある。それが社会のさまざまな側面に歪みと差別を生み出している。心を開いて物事の捉え方を変え、「女性と仕事」に目を向けるのではなく、「競争と家族の世話」に目を向けてみよう。そうすれば、進歩と変化のきっかけになるような、新しい解決策と協力の体制が見えてくる。

ケアは、すべての女性をひとつにまとめる旗印になる。

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