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宮川氏の許可を得て、記事を転載します。
なお、拡散希望です。
不思議なる縁( えにし )シリーズ.No.8 久遠の友との出会い。
( 拡散願います。)
昭和59年10月3日
創価後継の大樹が逝きし、忘れ得ぬこの日。
我が師は、御奥様と共に来賓接待の為に、和歌山の白浜におられた。
代行すべき秋谷は腸捻転で入院。理事長の森田は捻挫で動けず。
多忙を極める先生お一人に重責がかかる。
魔は巧みに、やがて広布の大樹となる後継の若樹を伐採せんと、虎視眈々と狙っていた。
「魔は、私を狙う。だが、私は倒せない。だから、私の大事なものを狙うのだ。例えば、家族である」
国際部で副会長の村井ら、数名と共に、白浜の湯に入浴の際の先生の御言葉である。
その数時間後、俄かに伝令が飛び、城久さんの逝去が先生に伝えられる。
先生は既に、第六天の魔王が先生の会長復帰を阻む輩の身に入り、
死魔を以って、後継の若樹を狙うであろう事は御存知であられた。
だが先生は愛弟子と、御学友の戦いを信じておられた。
我が子であろうと、弟子分の一人である。急遽、東京に戻る飛行機には、御奥様だけが乗られた。
偶々、今月の21日、私は関西の雄と会った際に、
その1人から、先生がその際に、会員さんに仰った御言葉を聞いた。
「公私は、公だ」仏としての先生。
しかし、人間世界に肉体を持って御生まれ下さった以上、夫であり、父でもある。
だが、先生には、私( わたくし )の時など、一瞬もなかった。
我が子の忌まわの時ですら、世界の平和を願い、民衆の幸せの為に、一人の人権の為に、
先生は、全てを犠牲にされた。戸田先生にお仕えになっておられた時から、そうであった。
文学青年である我が師匠は、戸田先生の事業を立て直す為に、大蔵商事と言う金融会社で、
借金の取り立てまでさせられた。
世界の平和の為には、戸田先生を、創価学会を守るしかない、との思いからであった。
あの優しい先生が、戸田先生の事業再建の為にする借金の取り立てと、
債務者への慈悲の狭間で、どれ程、苦しまれたか。
その事を思うと、今でも、戸田の襟首つかんで、
「貴様!俺の師匠に、何て事を、させるのか!」と怒鳴り散らしたくなる感情を抑える事が出来ない。
先生は仰った。「本来なら、何不自由なく、幸せに暮らせる菩薩が、
敢えて、苦労を背負って、人を救う為に、生まれてきたんじゃないか。
すべて、大聖人との、私との誓いじゃないか 」と。
先生の、舌ったらずで、優しい言葉が耳朶に響く。
先生は、東京にはお戻りにならず、予定通りの予定をこなされた。
「公私は、共に公だ」と仰った意味が分かったのは、それから後の事であったそうだ。
☆昭和59年10月3日の先生の和歌。
*「安らかな いまはの笑顔の知らせきき 父はたたえむ若き王者と」
昭和59年10月3日
午後9時45分、関西文化記念室にて、城久大兄、 大作。
*「 大難に 父を守りし この数年 凱歌の君を 永遠(とわ)に、忘れじ」
昭和59年10月4日 池田城久宅 通夜の日、大作。
先生は、その後、山口県の萩へと赴かれ、しばし、御滞在された。
萩会館は、裏庭が、川に面している。
先生は、そこに立たれて、川を一人で御覧になられていたという。
城久さんと同じく崇高にして、怒涛の29年の生涯を走り抜けられた尊敬する吉田松陰先生。
私は、城久さんの事を思うと、松陰先生の事を思う。
友が、載せてくれた記事を転載させて頂く。
以下の転載投稿に、
城久さんと一緒に名前が出てくる忍田と正木。
先生が後継の弟子軍の中でも、最も信頼された筆頭の弟子である。
魔の巧みな謀略により、酒漬けにされた忍田。
たかが、秋谷如き死に損ないや、アノ事務屋が会長?と、同僚から小馬鹿にされ、
小金を貢いで、モノにしようと企んでフラれた女子部の娘からは、
「気持ちの悪いカエル?おじさん 」と陰で唾はきかけられている原田如きに、
脅されて、生来の奥ゆかしさに、本来の強大な妙法の戦士の魂を忘れた将軍忍田、正木!
池田門下生、第一の弟子たる軍旗を汚されてよいのか!
又、新対話シリーズNo88 正義の走者、栄光の未来へ、君よ、羽ばたけ!
に、連なる未来部の弟子たちよ!
このまま、師匠の平和思想、慈悲と平等の創価思想が、ケダモノ共に、穢されて平気なのか!
89歳の先生に申し訳ないと思わないのか!
原田や秋谷如き、有象無象の輩は、私が始末する故、命の奥底に眠る、師匠の魂を思い出して欲しい。
私のフェイスブック(Yuho Miyakawa)の投稿は、
いつも公開設定である故、個別にメッセージを頂きたいし、
原稿に出てくる弟子達にも、是非伝えて頂きたい。
友人の投稿をシェアするだけのつもりが、又、長文になった事をお詫びする。
☆学生部時代の朋友、
超優秀な同志からの投稿を転載する。
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◎『世界が見た真実 池田大作の軌跡 第2回』
「創友会とともに〈下〉」より
3期生の青年
本稿を締めくくるにあたって、一人の3期生にふれておきたい。
1979年(昭和54年)3月、創価大学の法学研究科修士課程を修了。
研究者の道をなげうち、母校の職員となった青年である。
*
青年は、朝早く職場に現れた。机をふき、床を掃き、ゴミを捨てる。
それが終わると 自分のデスクに10枚ほどの付箋をはる。
一日の行動予定を記し、優先順位をつける。
上司から口頭で受けた話は必ずメモをして書類にまとめる。
胸ポケットのメモ帳は、いつも小さな文字で、埋めつくされていた。
*
当時の創価大学では、留学をはじめ、クラブ活動の海外遠征も、すべて届けを出す決まりだった。
携帯電話もない時代。事件や事故に巻き込まれては、対応が後手になる。
青年は緻密だった。行程、移動手段、緊急連絡先、両親の了解……。
学生の安全を念入りに確かめた。
*
学生から慕われた。一人一人と懇議し、家族、出身地、経済状況、
健康状態などを丁寧に聞いていく。
79年(昭和54年)6月、滝山祭が近づくと、実行委員長に手書きのメモを渡した。
「よかったら、参考にしてください」。
姉妹校である創価学園の生徒も参加する予定だった。
中学生もいるので全体行事は短めに。近隣へのあいさつ。
混雑時の入場制限。トラブルを未然に防ぐためのアドバイスが書き込まれていた。
当日は円滑に進み、創立者はグラウンドをゆっくりと一周。
学園生と肩を組んで歌った。
思いきって行事を短くしたぶん、それだけの時間的余裕が生まれたのである。
*
82年(昭和57年)のある夜。青山1丁目のフルーツパーラーに幾人かの卒業生が顔を合わせた。
青年が、忍田(おしだ)和彦(1期生)に切り出す。
「本気の人が出なければならないと思います」
正木正明(※3期)もコーヒーカップに伸ばしかけた手を止めた。
「誰かが本当に立ち上がらなければ、創立者の構想は実現できないと思うんです」
ライトに照らされた大きな体躯が前のめりになっている。
友人からは親しみを込め「城ちゃん」と呼ばれていた。
創立者の二男。故・池田城久(しろひさ)である。
29歳で逝去。創友会の理事だった。
「誤解される言い方かもしれませんが、僕は、とことん命がけです」
今、幾千幾万の創友会の友が、その道に続く。
「池田大作の軌跡」編纂委員会
(「潮」2008年10月号 より)
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