海の響きを懐かしむ

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1950年代の映画のおもしろさについて

今年200本近い映画を観てきて、50年代の映画が改めて面白いな〜と思っている。


浅知恵ながら考えたことを書くと、50年代の(ハリウッド)作品は、

  • 基本的なカメラの動きが寄り(アップ)と引き(人物などの動作)、そして左右の振り(導線設計)、この3つしかない。
  • また、VFXや特殊効果が存在しないので、単純な仕掛けしかできない(たとえば、爆発の煙、運転シーンでの背景合成、フィルムの重ね合わせや逆再生といったシンプルなギミック、など)。
  • そのため映画の主たる構成要素は、必然的に俳優の演技と、そこで交わされる会話。この2点に絞られる。
  • なので、俳優の表情とセリフ、動きによる感情の機微の伝達と、会話によるテンポづくり、ストーリーの進行がものすごく重要になる。


8月に「午前十時の映画祭」でオードリー・ヘップバーンの主演作品を幾つか観て、俳優の演技をじっくり堪能できる気がするのは、こういった映画のそのものの構成に拠るのだなあ、と思った。
また、「イヴの総て」(1950)や「サンセット大通り」(1950)といった、ショウビズの裏幕ものの元祖では、俳優が劇中劇を演技するなど、相当な演技力が必要になる。それにセリフも面白くなくてはいけない。
そういった映画を観ていると、スター俳優に求められるものが、今とは違うと感じる。


しかし、1960年代になると、いろんな仕掛けが登場する。

ヒッチコックの「サイコ」(1960)では、カメラが思いがけない方向に動いて、その動きによって場面を説明したり、感情を伝えようとしている。
また「俺たちに明日はない」(1968)での、銃声を浴びた時のリアルな体の動きは確かに先駆的だ。


翻って考えてみると、50年代の日本映画というのは、ちょっとすごいのではないか。


羅生門」(1950)では、既にカメラを上に下に動かして、俳優を取り巻く"世界"全体を写そうとしているように見える。逆光を厭わず森の木漏れ日を写し、京マチ子三船敏郎の鬼気迫る切り合いを転がるように撮っていく。
初代の「ゴジラ」(1954)の特撮技術力に至っては、舌を巻くばかりだ。ゴジラが登場するファーストカット、山の向こうからにょきっと顔を出し、手前では人間たちがカメラに向かって逃げてくる。それだけなのに、ものすごく怖い。


結局、ゴジラやべーという結論でした。


ゴジラ

ゴジラ

サイコ (字幕版)

サイコ (字幕版)