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なにわ人物伝 -光彩を放つ- 管野 スガ (2) 宇田川文海により文才発掘 2005/06/04
三善 貞司 明治三十二(一八九九)年、十八歳で大金持ちの小宮福太郎と結婚した管野スガは三年後、自分から三くだり半をたたきつけ、東京の豪邸を飛び出した。 横暴な福太郎は新婚の枕を交わした翌晩から花柳界に入り浸り。しかもスガを小ばかにして召し使いのようにあご先でこきつかったからだと言われるが、スガも夫を愚劣で低級な男だと軽べつしている。思考や生活の次元がまったく異なっており、共同生活はとうてい不可能であった。 生まれ故郷の大阪に戻ったスガは、創刊されたばかりの「大阪朝報」の記者になり、「須賀子」「幽月」のペンネームで、鋭い社会批判の記事を書き始める。 この世話をしたのが、スガの弟正雄が書生として住み込んでいた大阪ジャーナリストの草分け、文士宇田川文海である。彼は江戸末期、勤皇派の過激浪士に襲われ、あごを切り落とされて九死に一生を得た体験を持つ。 明治維新後、活版印刷の祖・大木昌造の弟子だった兄の茂中貞次から「お前、しゃべるのが不自由やろ。文章なら好きなことは書けるし、印刷すれば多くの人に読んでもらえる」と勧められ、いくつかの地方新聞に参加した後、大阪で「浪速新聞」を発行、「大阪日報」「大阪朝報」と創・廃刊を繰り返すうち文名上がり、「朝日新聞」「毎日新聞」などに健筆を振るった人物だ。 文海はスガの文才を愛し、物心両面の援助を惜しまず、はた目も驚くほどひいきした。この時代、病気で倒れてスガのやっかいになっていた父管野義秀の世話も焼いており、感謝したスガは文海を「神たる師のきみ」と呼び、「無学無才、なに一つとり柄のない愚かな私を、人並みにしてくださった師のきみのかたじけなさ」「どのような目に遭おうとも、師のきみの恩愛に報ゆる人間にならねばならぬ」とも書いている。 このとき文海は五十四歳、スガは二十一歳である。若い出戻り女と老いた男が互いに献身的に尽くしあう姿を世間は好奇の目で眺めた。 「スガは文海を誘惑し、妾(めかけ)になって世に出た」という人も多い。しかし文海は昭和五(一九三〇)年八十二歳で世を去るまで、四十六年間も妻ツルとむつまじく暮らしており、恋愛関係にあったとは考えにくい。スガの秘めた文才を導き出した師匠と、敬愛の念で接していた女弟子との、美しい師弟愛だったとみたい。 「大阪新報」のスガの文章は過激になる。 「紳士紳商と申すやからの夫人の境遇は如何(いかん)。夫は社交と称し醜業婦と日夜戯れ、若い女に号数をつけ妾に囲ってゐる」 「妻君は夫の不品行・醜態の数々に知らぬふりをし、嫉妬(しっと)せぬと賢女、貞女なりと世人はいう」 「同胞を奴隷化し、人類に階級を設けてこき使ふ雇主ども」 「被雇人は天下に恥じず。自ら卑屈になることなかれ」 などと論じ、女工の虐待や赤線廃止をテーマに人権尊重、女権拡張を主張した。 明治三十六(一九〇三)年、大阪で第五回勧業博覧会が開かれると、アトラクションの「芸妓の舞踏余興」に激しくかみつく。 「博覧会は馬鹿者どもの遊び場か。醜業婦を白昼公然と拙劣卑猥(わい)きはまる悪歌につれて踊らせるとは。あなたがた平気か」と、鴻池夫人が会長を務める「大阪婦人慈善会」にも訴えている。 さらにこの年スガは、土佐堀青年会館で開かれたキリスト教徒たちの女性地位向上運動「婦人矯風(きょうふう)会」の演説会に参加。女性解放運動の先駆者、矢島楫子や林歌子(本連載82、83を参照)を知る。感情に走らず冷静な社会通念の改良から始めねばならぬと歌子に諭されたスガは、まず自ら「醜業婦」と書いたことをひどく反省した。 「私は遊郭(ゆうかく)の女性たちを醜業婦と呼んだ。ああ、自分の尊大さが恥ずかしい。我も人、彼女たちも人、同胞なのだ。聖なる婦人に春をひさがせる悲惨な境遇こそ、憎まねばならぬ」 目からうろこの落ちたスガはこう書いて、「大阪婦人矯風会」の時事問題担当委員になる。同僚にガントレット恒子や羽仁もと子など、いずれも婦人参政権獲得運動の功労者がおり、その影響でスガも博愛思想による廃娼、一夫一婦制の確立、男女同権などの問題に取り組むようになっていった。(続く) |
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