東北大震災・絶望の心理学・世界中の人から今も愛される本・

生きる心理学・読書療法


「フランクルに学ぶ」の名言


 それは、極限の苦悩と絶望の果てに開示される、輝かしい人間の姿だった。いかかなる状況でも他者を思いやる高貴な人間性、どんな絶望からも立ち上がる驚異の生命力だった。
 フランクルはいう。これこそが、私たち人間の本当の姿であると。



 ロゴセラピーをひとことで説明するなら、フランクルが強制収容所でかいま見た人間の高貴なる本質、いわゆる実存的な本性を"覚醒させる"技法であるといえよう。<中略>
 それは、自分を忘れ、自分を越えて価値ある何かに没頭し、一体化することで得られる精神的な充足感、いわば真の幸福へと人を導くものである。フランクルはいう。
「自分の成功や楽しみには目もくれぬ人---自分を忘れ、ある事やある人に、仕事や人間に愛を傾ける人---そんな人には、すべてがひとりでにやってくる。成功も楽しみもである。」



「あなたの存在、あなたの人生には、すばらしい意味がある。いかなる絶望にも希望がある。人生はうまくいくようになっている。ただそのことに気づきさえすればいいのだ・・・・・」





 人間は、いかに過酷な状況に置かれても、醜い本能をまるだしにしたり、列悪な行動に走るような存在とは限らない。逆に、困難や苦しみを通して聖者のようになる人もいる。人間の本当の姿(実存)は、限りなく高貴で偉大な存在、高い次元に属する「精神」なのだ・・・・・。

 そして彼は、そんな人間の精神(生命)の源を「ロゴス」と呼んだ。
ロゴス(logos)とは、「論理」「精神」「宇宙法則」「神」といった意味の言葉である。



 あなたの本当の姿は、究極的にはロゴスである。

大切なのは、自己の内に宿るその力を自覚し、その力を信頼し、その力に自分をゆだねること、その力にまかせて生きることなのだ

そうすれば、ロゴスの力が偉大な働いて、偉大なことが可能になるだろう・・・・・。



強制収容所で大切にしていた学術書の原稿を没収された後で


「人生の意味が、本が出る出ないにかかっているとでもいうのか?そんな条件づけられた意味など、真の意味ではない。本を出版するよりも、自ら書いた本の内容通りに生きること、すなわち、避けられない苦しみや死であれば、それを心静かに受け入れること、この方がよほど重要で意味がある。なぜなら、模範的な生き方をしたという実績は、過去という、決して侵害されることのない避難場所に保管され、永久に失われることがないからだ」


 これは、後にフランクルが力説する「態度価値」について言及しているのであるが、いずれにせよ大切なのは、その言葉ではなく行動なのだ。口先だけなら、どんなことだっていえる。



 偶然と思えるような出来事にも、そこには深い意味が潜んでいる。それは神(ロゴス)からの啓示かもしれない。フランクルは常にそう考え、ささいな偶然からも、そこに意味を読み取ろうとする姿勢を持っていた。



神の導きは、短期的な視点だけで判断すると、期待はずれに終わることも多い。



 差別とは、自分を他者より優位に立たせようとする行為である。その根底にあるのは、おそらく自己保存の欲求であろう。この自己保存の欲求から、他者から侵害されるのではないかという恐怖が生まれてくるわけだ。<中略>

 要するに、虚栄心も差別意識も、恐怖に対する防衛本能の現われなのだ。虚栄によって人を見下し、差別化する根本動機は恐怖なのである。



 虚栄と誇りは違う。虚栄を満たすには他者を必要とするが、誇りは他者を必要としない。誇りとは、他者ではなく自らを征服した者の、内的な真の自信なのである。



 外的な希望は、一時的には励みになるかもしれないが、残念ながら当てにはならない。

 だが、究極の状態では、精神的な支えを失ったら生きていけないのだ。



 そうだ。人生に期待するのは間違っているのだ。人生の方が無、私たちに期待しているのだ!


フランクルはこれを「人生の問いのコペルニクス的転換」と呼んでいる。



 フランクルは、人生に何の期待もできずに自殺するつもりだった二人の囚人を説得し、生きる意味を呼び起こさせている。
「未来には、あなたによって生み出される何かが待っている。人生は、あなたがそれを生み出すことを期待しているのだ。もしもあなたがいなくなれば、その何かも、生まれることなく消えてしまうのである。人生は、あなたがそれを生み出すのを待っているのだ」




 人生に期待することをやめた人間は、どんな結果であろうと受け入れる覚悟ができている。結果は問題とならない。<中略>

「人生は、結果まで人間に要求したりしない」とフランクルはいう。



「自分の胸に、正直に聞いてみていただきたい。過去の人生から、たとえば恋愛経験から、悲しい要素だけを消してしまいたいかと。苦しみ悩んだ出来事が、すべてなかったらよかったと思うだろうかと。たぶん、ノーというだろう。いやな時期だったとしても、ちょうど人生のこの時期に、自分が精神的に成長し、成熟したのだとわかっているからだ」



笑いとは、<中略>意識が<中略>解放されたしるしだといえる。<中略>換言すれば、自分自身や自分の人生を、異なった視点から観察できる柔軟性や客観性が生まれたということである。
 フランクルはそれを、「自己距離化」と呼んでいる。



究極的、本来的には、ロゴスと愛とは、同一の、存在そのものの両面に他ならない。



愛こそが、人間存在を高いレベルに持ち上げる最後にして最高の真理だ・・・・・



 おそらく私たちは、相手の中にロゴスを見ない限り、つまり本質を見ない限り、その人を真に愛

することはできないように思われる。



 ところが、貨車の行く先がガス室のないカウフェリング第三収容所だとわかったとき、囚人たちは文字通り踊りながら喜んだというのだ。その喜びがいかに大きかったか、フランクルは「自ら味わった人でなければとうてい想像できないだろう」とまでいっている。
 収容所に到着すると、すぐに長い点呼が行われた。
 このとき、ひとりだけ深い睡眠に陥って点呼に出なかった者がおり、懲罰として全員が、冷たい風雨の中を徹夜で立たされることになった。身体はびっしょり濡れて冷たくなったが、それでも囚人たちの喜びの興奮は冷めなかったという。


 フランクルは、こうした例を引き合いにして、地上の幸福とはしょせん、相対的なものだといっている。





 人生は、いかなる状況でも、それ自体で意味をもっている。だが、その意味の中には苦悩も死も含まれているのだ。すなわち、苦悩すること、死ぬことは、決して無意味どころか、人生を意味あるものにするのである。苦悩も死も、それ自体が意味なのである・・・・・。



 フランクルはいう。人間は、相当の苦悩にも耐えられる力をもっている。しかし、意味の喪失には耐えられないと。



「(世界ではなく)自分自身が別のものになるとき、苦悩は意味を持つのである・・・・・」
 世界とは、要するに、私たちひとりひとりの相対に他ならない。私たち自身が変わらなくて、どうして世界が変わるだろうか?



 フランクルはいう。人は絶望的な経験を通して、すべての非本質的なものが溶解すると。
 すなわち、本当の自分ではない「虚構の自分」が溶けてしまうのだ。
自我が消えてしまうのだ。人はそのとき、完全な「無」となる。


「文字通り無になった人は、まさに生まれ変わったように感じる。しかし、以前の自分に生まれ変わるのではなくて、もっと本質的な自分に生まれ変わる」





おそらく人生とは、円環的なのだろう。円周において、始点の究極は終点となり、両者はひとつとなるように、徹底した究極の絶望を経験した者は、徹底した究極の希望に到達するのである。すべてが無になった人は、すべてが「有」になるのだ。



 すなわち、いかなる運命にも、無条件かつ絶対的な意味があること。それゆえ、その運命に身を任せていれば、すべてがうまくいくこと。こうした内的確信が、心の底から沸き上がってくるのである。
 帰還者たちの心を癒したのは、すべてをよし(イエス)とする、こうした「信仰」に他ならない。


フランクルは、三歳になる頃には医者になる決心をしていたようである。
そして四歳のときである。眠りに入る前に、はっと飛び起きたというのだ。
「自分もいつかは死ななければならない!」
この事実に気づいたからだという。彼はしかし、このように付け加えている。
「私を苦しめたのは、死への恐怖ではなかった。むしろ、たった一つ、
人生の無常さが、人生の意味を無に帰してしまうのではないか、という問いであった」



われわれが人生の意味を問うのではなく、われわれ自身が人生の意味を問われているのであり、答える責任があるのだ。そして、究極的な意味は、われわれの理解を越えており、ただその意味の存在を信じるしかないのだ



一体、私たちを苦悩させている原因は何なのだろうか?


フランクルによれば、それは「人生の意味や目的の喪失」である。すなわち「自分は何のために生きているのか?」という、生きる目的も価値も見いだせない生活からくる脱力感や空しさが原因だというのだ。フランクルはそれを「実存的空虚」と呼んでいる。



たとえ外面的には病んでいるように見えても、人間の本質は、何ものも決して侵すことのできない完全性を備えている。



二年前に妻を失い、以来、抑うつ状態に悩まされている高齢の開業医が診察に訪れた。愛する者を失った孤独と喪失感に、生きる意味をなくしている様子だった。フランクルが尋ねた。
「もしもあなたのほうが先に亡くなっていたら、どうなったでしょう?つまり、奥様の方が残されていたとしたら?」


「たぶん、妻は苦しんだに違いありません」
「なら、おわかりでしょう?奥様は、その苦しみを免れることができたのですその苦しみから奥様を救ったのは、あなたなのですよ・・・・・・」
老医師は、フランクルの手を握って静かに去っていった。



フランクルは、哲学者ニーチェの言葉を引用して次のようにいう。
意味さえあれば、人間はおよそどのような苦しみにも耐えられる



妻に先立たれ、絶望のあまり自殺を試みて入院してきた初老の男性と、フランクルは次のような対話を行っている。


「私が自殺を繰り返さないのは、妻の墓石を立てる責任があるからです」
「その他には、何の責任もないのですか?」
「私にとって、すべては無意味だし、空虚なのです」
「しかし、すでに存在しない死者のために墓石を立てるといった、現実的な有用性や目的性を越えたことに責任を感じておられるのなら、死者のために生きる責任もあるとは、感じられないのですか?」


その言葉を聞いた男性は、はっと気づくものがあり、生き抜くことを決心したという。

彼の内面に、いったい何が起こったのか?


この男性にとって、墓石を立てるということは、愛する妻のためだと信じていた。それは「愛の表現」であり、彼女が喜んでくれる行為であると。


しかし冷静に考えれば、彼女はもう存在しないのだから、墓石など無意味ではないのか?
フランクルが暗にこう指摘したとき、この男性は、ある内的知覚を経験したのである。


それは、肉体が存在しなくても、その実存的本性を感じる、ある種の確信であり直感である。

彼女は、今なおどこかで、その実存的本性として生きており、自分のことを見守っている。墓石を立てれば、彼女は喜んでくれる。肉体は存在しなくなっても、彼女への愛の表現は、決して  なし意味ではない。そんな感覚なのだ。



ならば、墓石を立てること以上に、彼女が喜ぶこととは、いったい何だろう?

それは、生きることであろう。彼女は、自分が生きることを望むだろう。それこそ最高の、彼女への愛情表現であろう。それは愛するものに対する「責任」であると同時に、愛する者を喜ばせる行為、まさに「意味」そのものではないか。
こうして男性は、生きる意味と責任を自覚したのである。



私たちが、自らの責任を果たすのを期待している存在、それは配偶者や友人といった生きている人たちばかりではなく、すでに死んだ人たちも含まれるとフランクルはいう。

彼らは、見えない領域から、常に私たちを見守り、私た


ちが責任ある生き方、意味ある人生を送ることを期待しているというのだ。
フランクルはそれを、客席に座っている観客にたとえている。


私たちは舞台に立って演劇をしているのだが、スポットライトがまぶしいため、こちらから客席を見ることはできない。しかし見えていないとはいえ、そこには「観客」がいて、私たちがどのように感動的ですばらしい劇を演じていくのか、期待しながら静かに見つめているというのだ。


そして、そんな私たちを見つめている究極の存在が、ロゴスなのである。





 ロゴスとは要するに、宗教でいう「神」なのであるから、神をもちだし、それを信じさせようとするのであれば、もはやセラピーではなく、文字通り「宗教」になってしまう。

 ところが、ロゴスが、そして他の存在が、どこかで自分たちを見守っているという感覚は、あくまでも個人の内面から自然に湧き上がるものなのである。



「一回性の意味の成就は、良心の直感によって支えられている」
 良心の直感に従うことで、試練に応え、人生の意味が成就されるというのだ。
 ただし、フランクルのいう「良心」とは、過去の道徳教育などで形成された観念や倫理基準のことではない。それは、あくまでもロゴスからやってくる純粋な直感であり啓示である。



フランクルにとって、苦悩とは、人間を成熟させて真実の自分(ロゴス)を呼び覚まし、生きる意味を成就させるチャンスそのものである。

 ということは、苦しみを避けてばかりでは、薄っぺらな人間、たいして意味のない人生しか期待できないだろう。



 とはいえ、苦しみは、意味ある人生にとって、絶対に不可欠というわけでもないと、フランクルはいう。まして、苦しめばいいというわけではない。意味のない苦しみは、できる限り避けるべきだといっている。<中略>

 苦悩は、あくまでも成長の機会であり、手段であって、目的ではない。苦しみを目的としたら、それは単なるマゾヒズムになってしまう。



 人はしばしば、苦しみに対して不合理な説明を行う傾向をもっている。強盗に襲われるといった、自分には何の罪も責任もない災難なのに、さまざまな理由をもちだして、自分のせいにすることがある。たとえば、強盗をしたくなる気持ちを自分が煽ったせいだとか、前世で自分が強盗をしていた報いだとか(どうしてそんなことがわかるのか?)子供の頃おもちゃを万引きした罰だとか、信仰が足りないせいだとか、あらゆる理由づけをしてしまう。それがどんなにナンセンスであろうと、理由がないよりはマシなのだ。なぜなら人間は、意味もなく苦しむことには絶えられないからである。





 しかし、こうした自己処罰的な意味づけは、結局、自分の罪を洗い清めるためだとされ、苦しみそのものが目的となり、マゾヒズムと変わらなくなってしまう。<中略>
 しかも不幸なことに、自己処罰のあやまった意味づけは、しばしば他者に投影され、他者を傷つける結果にもなりかねないのである。
 たとえば、だれかがぞっとするような不幸に見舞われたりすると、「あの人は罪深い人間だから、あのような不幸にあったのだ」と思い込んでしまうのだ。



 少しくらいの不幸であれば、同情心が沸いてくるかもしれない。けれども、非常に恐ろしい不幸、自分には絶対怒って欲しくない不幸に見舞われた人を前にすると、人間は不安に駆られてしまう。「こんな不幸がだれにも訪れる可能性があるのだよ」と、その人が訴えているように感じられるからである。


 すると、自己保存欲求が脅かされる。あのような災難は自分にきてほしくない。
 ならば、どうすればいいか?
 その人と自分は違うのだという「差別化」をすればいいだろう。つまり「自分はあのような災難を受ける人間ではない」ことを証明すればいいのだ。


 そこで、不幸に見舞われた人々を「悪い人間」だと決めつける傾向が、なかば無意識的に働くようになる。要するに「自業自得」だと考えたいわけだ。
「あんな不幸にあったのは、何か悪いことをしたんだ。当然の報いなんだ。自分とは違うんだ」
 そう思い込むことで、自分を安心させようとするのである。


 こうして私たちは、もっとも思いやりが必要な人に対して、もっとも冷たい拒絶や、罪を責めたてる非難の気持ちを向けてしまうことが、しばしばある。


 いずれにせよ、自分に対してであれ、他者に対してであれ、不合理な罪の処罰意識には、何の建設的な意味もない
 第一、愛である神が、人間が苦しむのを望むはずがない。神が人間に期待しているのは、苦しみでは決してない。与えられた現状を、未来に向けてどのように活かすかである。


 やはり、自分自身が何らかの喜びに満たされていなければ、本当に心の底から態度価値を実行することは、できないはずである



■ 意味ある行為とは、自分を忘れて没頭できる何かである。


 そこで、あらためて意味とは何かを考えてみたい。
 繰り返すように、フランクルのいう意味とは、ロゴスを覚醒させる何かである。創造行為だとか、自然・愛・美の体験が、まさに意味だといっているわけだ。

 ではなぜ、こうした意味によってロゴスは目覚めるのか?


 少し触れたように、真に意味ある行為に没頭しているとき、私たちはそれに意味があるかどうかなど、問い掛けたりはしない。人はそのとき、自分を忘れ、対象とひとつになっている。価値ある仕事に夢中になっているとき、愛する人と交流しているとき、美しい自然や、すばらしい芸術に接しているとき、人は自分自身を忘れている。


 意味ある行為に没頭しているとき「これに意味はあるのか?」なとど問いかける自分は、そこにはいない。いわば「無我の境地」になっている。
 つまり、創造価値や体験価値がなぜ「意味」となり得るのかといえば、結局のところ、その行為が「自分」という意識を忘れさせるからに他ならない。

 自分を忘れること、すなわち「無我の境地」を、フランクルは「自己超越」と呼んでいる。そして自己超越こそが、人間の本当の姿であるといっている。


「人間の実存的本質は、自己超越にある」


 一方、私たちの究極の本質は、ロゴスであった。このことを考え合わせるならば、自分を忘れたときに、人はロゴスに近づくのである。これが要するに、ロゴスの覚醒ということなのだ。ロゴスは、自分を忘れたとき、無我の境地になったときに覚醒する。逆説的だが、自分を忘れたときに、人は本当の自分に目覚めるというわけである。

 自分を忘れたとき、自分は対象と一体化して、そこに溶け込んでしまう。自分がいないから、対象を利用しようという意識はない。<中略>無条件の行為、無私の行為がそこにはある。<中略>自我はある種の障壁であるから、相手と一体化できなくなるのだ。



苦悩は、死んでいく自我(虚構の自分)の痛みに他ならない。



「私が一番苦しいのは、自分が何にもまして愛した職業を、もうやれないということです」
そういって嘆く彼女(末期がんに侵された看護婦)に対して、フランクルは次のような言葉を返した。


「あなたが一日に何時間働こうと、別にたいしたことではない。だれだってすぐにまねができる。けれども、働きたいけれど働けない。にもかかわらず絶望しない。これは、そう簡単にまねのできる行為ではないだろう」


 人生という演劇においては、だれもが独自の役柄を演じなければならない。物語の信仰にとって必要な、自分にしかできない役柄を与えられているのだ。それが「独自性」としての生きる意味であり、その意味を通して人間は、自らを越えていくのである。


「あなたは、看護婦として身を捧げた幾多の病人たちに対して間違っ

ていないだろうか?」
 厳しくも優しさに満ちた言葉が、続いて投げかけられた。
「病気や病弱で働く力のない人たちの人生が、あなたにはまるで無意味だとでもいうようだが、それは間違いではないだろうか?あなたがそこで絶望してしまえば、人生の意味が、まるで一日何時間働くかによって決まるかのように二ってしまう。


だとしたら、あなたはすべての病人や病弱者の生きる権利も生存の資格も何ひとつ認めないことになってしまう。


 ところが実際は、今こそ彼らの生きる意味と価値を実証する唯一のチャンスなのだ。なぜなら今までは、単に職業上の看護をするだけで彼らを支えるのが精一杯だったのに、今後はそれ以上のチャンスがもてるからである。つまり、模範的な生きざまを通して彼らの生を支えるチャンスということだ」



「遅かれ早かれ人生は終わるのです。そして後には何も残りはしません」
 こういって虚無的な絶望感に沈む女性患者に対し、フランクルは次のように問い返した。
「今までに、あなたが大変に尊敬するようなことを成し遂げたり、達成した人に出会ったことはことはありませんか?」


 するとかの彼女は、自分のかかりつけの医師がそうだったと返答した。
「どんなに患者の世話をし、どんなに患者のために生きたことか・・・・・・・・・」
 今は亡きその医師の人生こそ、真に意味のあるものだといったのである。

 それに対してフランクルは、逆説的な質問を彼女浴びせかけた。
「でも、その意味は、彼の人生が終わったとたんに、消え去ったのではありませんか?」

 彼女は断固とした口調で答えた。


「いいえ、決してそうではありません。彼の人生が意味深いものだったという事実は、何ものも変えることができません」

「たとえば、患者のただひとりも感謝の気持ちがなくて、そのお医者さんの世話になったことを

覚えていないとしたら、どうですか?」
「彼の人生の意味は残っています」
「それとも、記憶力がなくなったとしたら?」
「残っています」
「それとも、ある日、最後の患者が死んでしまったとしたら、どうでしょうか?」
「残っています・・・・・・・」


 彼女は、フランクルのソクラテス的な問答により、内的な確信(信仰心)を自覚したのである。だからこそ、断言できたのだ。


彼らの生き方が優雅なのは、自我や知性、地位や権力などにとらわれていないからだ。
彼らは、からだとひとつになり、からだを通して、あらゆる生命とひとつになり、宇宙とひとつになっている。
彼らのスピリットは、内なる生命の炎で照らし出され、光り輝いている・・・・・(ライヒ派のセラピストであるアレキサンダー・ローエンの言葉)



この世で不滅な行為とは、いったい何なのだろうか?
 ほとんどのものが、死と一緒に無に帰してしまう。無に帰してしまうのが無意味であるというのなら、この世に意味のあることなど、たったひとつしか存在しないことになる。
すなわち、愛を動機とした行為、それだけである



 恐怖と向き合うのには、当然だが非常に勇気が必要とされる。
 普通の人からすれば何でもないことでも、それを恐怖する人にとっては、文字通り恐怖だからである。


 しかしながら、私たちの感じる恐怖の大部分は、生命の危険とはほとんど無縁である。
 その大半は、プライドや虚栄心にこだわる自我(エゴ)が否定されること、その恐怖なのだ。人前で赤面しようと、手が震えようと発汗しようと、生命が脅かされる危険はない。けれども自我がそれに耐えられない。弱点や醜態をさらけ出せば、虚栄心がつぶれてしまうからである。虚栄心を支えにする自我にとって、それは「死」そのものであり、最大の危険であり恐怖だと思い込んでしまうのだ。



 私たちの怖れは、実際には(虚構の)自我の保存欲求から来ているのである。必死で守ろうとしているのは本当の自分ではなく、ニセの自分にすぎないのだ。


この世界は「調整原理」が働いていて、すべてはうまくいき、安全であり、自分は守られているのだという世界観があれば、過剰に自己防衛しようとはしなくなる。
 そういう信頼感をもって人は、むやみに戦いを挑んだりはしない。



機能ではなく「存在」を愛する人だけが、真実に愛する人である。



いかなる行為も超世界においては「彫刻化」され、永遠に保存されることを考えるなら、行為とはそれ自体が「作品」に他ならないわけだ。私たちは、愛を表現した作品(人生)の創造を期待されているのである。



ロゴスの覚醒と自己超越は、ほぼ同義語であるといってよい。そして、自己超越のために起用されたのが「意味」(三つの価値)であった。<中略>

 いずれにせよ、ロゴセラピーがめざすのは、自己超越なのである。自分を忘れることこそ、ロゴスという「本当の自分」と一体化する道であり、空虚感を満たす「本当の幸福」をつかむ道だからである。

 ところで解決されない疑問がひとつ残っている。


この世界の、この人生の究極の意味は、結局は何かということだ。
 究極の意味---フランクルはそれを「超意味」と呼んでいるのだが、彼によれば、超意味が何であるか、人間には決して知ることはできないという


 超意味とはロゴスのことであり、ロゴスは私たち人間の本質であるから、超意味を把握するとは、要するにロゴスと一体化し、ロゴスになること、換言すれば「本質的な自分自身」になることである。そうなったとき、人は自らを意識することはないとフランクルはいう。

「完全に根源的な"自分自身"であるとき、精神は自分自身に対して無意識である

 なぜなら、ロゴス愛だからである。愛とは自他の区別なき一体感のことだ。そこに「自分」は存在しない。つまり自己超越している。したがって、ロゴスそのものが自らを意識していないことになるのだ。


 だが、超意味であるロゴスが自らを意識していないとは、どういうことなのか?
 つまりはこうである。超意味と自己超越と愛とは、すべて同じことなのだ。それらは異なった側面からロゴスを表現しているに過ぎないのである。



 人間が、自らの存在と生きる意味に疑問を投げかけるのは、結局のところ、自分自身が本質的な自分(ロゴス)とかけ離れているからである。



「(本来の自分)は完全に忘我の状態になっているから、自分自身をその真の存在において反省することは不可能である。本来の自分は、ただ実現できるだけのものだからだ」



 人間は何のために生きるか? この問いの解答をつかんだ人は、もはや何も語ったりはしない。ただひたすら自分を忘れ、愛を表現して生きるだけである。その生きざまこそが、人生の究極の問いに対する無言の解答なのである。



 すでに述べたように、超意味であるロゴスを根源とする人間は、存在することそのものが意味であり、存在を通して意味(愛)を表現するというのが、その実存的本性であった。
 したがって、ロゴスのエネルギーを受け入れている人、換言すれば、自己超越した人は、まさに意味に満ちた存在感を放つようになる。存在そのものを通して、他者に意味(ロゴス)の実在を呼び起こす不思議な魅力をもっているのだ。フランクルはこう伝えている。


「ある特定の人を目の前にして心をとらえるあの感情、言葉で表現すると『こんな人が存在するだけでも、この世界は意味をもつし、この世界の中で生きている意味がある』とでもいいたくなるような感情は、だれもがよく知っている」
 そうした人はロゴスを表現している。生命エネルギーを、宇宙の調整原理を、愛を表現している。地上に創造的な成長と活力をもたらし、世界を調和に導く生き方を送っている。





ロゴセラピーが最終的にめざすのは、自覚された意味を、再び無意識に戻してやることなのである。自分を忘れ「愛の表現」を志向させることによって。
 「自意識」を捨てたときにこそ、ロゴスのエネルギーは流入し、私たちは本質的に変容し、意味そのものになるのだ。


「自分は『神の道具』だとか『仕えている』などと問うべきではなく、自分の仕事に専心すればするほど、摂理は"その人において働き"、その人を通じて成就される。人間の役割は一種の触媒であって、無自覚、無反省に専心すればするほど、人間は役立っている」



 結局のところ、フランクル哲学の真髄は、「態度価値」にあるといえる。
 なぜならば、態度価値こそが、ロゴス(愛)を覚醒させる最大のチャンスだからである。
 態度価値には、いかなるごまかしも、偽善も、入り込む余地はない。自我を喜ばせるあらゆる要素は失われている。他の価値、たとえば創造価値や体験価値では、単なる自我の満足を「愛の喜び」だと錯覚させる可能性が潜んでいる。


しかし、徹底的な絶望である態度価値に、その可能性はまったくない。人は態度価値において、真の実存として立たされる。いかなる期待も希望も立たれた状況におかれて、私たちは初めて、ひとりの人間として、その生きる姿勢を人生から問われるのだ。


「おまえが何をしようと、何の見返りも、慰めも期待できない。感謝もされなければ、認められることも、愛されることもない。さあ、おまえはどのように生きていくか?」
 これが「演劇」のクライマックスである。人生の勝敗を決める瞬間である。
 こうした、完全に無条件の状況に追い込まれてこそ、真実の愛は試され、あるいはまた、真実の自分を閉塞している自我の壁を破る最高のチャンスとなる。こんな状況でも愛を貫くことができるのか?



 自我とは、いわば衝動的な機械であり、本質的に条件づけられたもので、報酬なしに作動することは決してできない


 たいていの人は、この機械性に閉じ込められているので、何らかの報酬なしに愛することはできない。「愛してやる。そのかわり・・・・・」という交換条件、取引の発想から抜け出せない。
 そんな機械性を越えるのは容易ではない

 本質的にロゴスを根源とする人間の精神は、愛すること、それ自体に絶対の価値があることを、直感的に知っている


「最後の抵抗において、いかに精神が、この慰めも意味もない世界を乗り越えるというのか?この究極の意味に向けられた究極の問いに対して、しかし人間は、勝利の肯定の声がどこからともなく歓呼して近づいてくるのを感じるのである」


 これこそが、外的条件に依存することのない真実の意味であり、真実の愛なのだ。これが内面に確立されたとき、人は初めて真実の実存となり、その存在を輝かせるのである。私たちはただ、内なる深遠からその意味が、その愛が生まれる出るまで、じっと耐えて待つしかない。それを支えてくれるのは、苦しみには必ず意味があるのだというロゴスへの信頼(信仰)に他ならない。


 真の信仰をもっている人たちはすぐにわかる。
彼らには優美さがある。
信仰をもっている人たちの働きが優美なのは、からだのなかを生命力が、自由に、なめらかに流れているからだ。
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