こんにちは、たけのこです。
どうやら、私の遠い親戚にあたる方が台湾で事業を行い、現地に銅像が立っているようです。
という訳でちょっと台湾に出かけることになったので、事前予習ということで記事にしてみたいと思います。
おそらく知っている人は少ないはずです。
台湾で偉業を残し銅像になったおじさんに会いに行きます
日本統治時代の台湾の水利事業
台湾を日本が統治していたのは、日清戦争後1895年から第二次大戦が終了する1945年までです。
約50年間ですね。
当時、台湾の主要産業は農業でした。
農業に必要なのは水利施設です。
日本総督府は水利施設の整備をすることで、台湾の耕地面積を拡大することで現地の農民の収入を増加させ、総督府の農業税収を増加させる事業を行いました。
その一つの事業が「烏山頭ダム」です。
嘉南平原地区、現在の台南にあたる地域で、当時の嘉南平原には水利設備の無い農地が約15万ヘクタールありました。
東京ドーム約31,000個分の広さです。
わかりにくいですが、かなり広いです。
更にこの地域は、日照りや豪雨などに悩まされており、排水設備もなく農地として活用するには非常に効率が悪い土地となっていたのです。
そこで総督府は烏山頭ダムを建設し、水利施設を整備し、農地を活用するための事業を計画しました。
そこで活躍されたのが、土木技師「八田與一」(はったよいち)さんです。
住民による住民のためのダム
烏山頭ダムは1920年に工事着手し、1930年に完成しました。
しかし、工事の着手にあたっては大変な困難がありました。
そもそもの烏山頭ダム建設の許可が下りなかったのです。
それは八田技師が設計立案した烏山頭ダムが、当時世界最大規模のダムであったため、予算がとてつもなく大きく、実現は不可能と言われていたからです。
計画の予算は当時の総督府の予算15%を占める額、5,400億円とも言われています。
しかし、そこで諦め無かった八田技師は工事計画をより綿密にし、烏山頭ダムを建設することで得られる効果を粘り強く説明していきました。
その結果、なんとか工事着手まで持っていくことが出来たのでした。
工事着手後は八田技師は現場監督も務めることになります。しかし、建設中にも様々な困難が待ち受けていました。
伝染病の拡大、石油噴出による爆発事故など、作業員は地域住民が主体だったため、被害者もまた同じでした。
八田技師はそうした労働環境の改善にも力を尽くし、事故で亡くなった犠牲者に対しては遺族に対して一軒一軒回り、心から謝罪して歩いたといわれています。
工事は中止に追い込まれるところでしたが、犠牲者となった遺族が八田技師を励まし烏山頭ダムの完成を願ったそうです。
また、工事途中、日本で関東大震災が発生しました。
関東大震災の復興のための財源として、総督府は年間予算の30%を日本に寄付したことで、烏山頭ダムの資金が不足することになったのです。
そこで八田技師は作業員の解雇を迫られるのでした。
当時、日本からも土木技師が来て工事に従事しており、総督府からは日本人を残し、住民を解雇するように迫られたようです。
しかし、八田技師は
「優秀な者は再就職が簡単だ。しかし他の者はここを去ると仕事がなく生活ができなくなる。実務には優秀な少数の人間より、平凡な多数の者が必要である」
「烏山頭ダムを使うのは地元住民なのだから、住民手で作らねばならない」
という信念を持っていました。
そこで八田技師は住民を解雇すると報告しながら、実際には日本人技師を解雇したのです。
解雇した職員の再就職先も八田技師自ら台湾中を駆け巡り探し回ったといわれています。
そうした困難を乗り越え、遂に世界最大のダム「烏山頭ダム」は完成したのでした。
これにより嘉南平野は大規模な農業地域へと変わり、地域住民の農業収入を増加させることに成功したのです。
大事業の成功と殉職
八田技師は烏山頭ダム完成後、軍の命令によりフィリピンへ向かうことになりました。
しかし八田技師が乗り込んだ船は、アメリカ軍の潜水艦に攻撃を受け沈没し、八田技師も巻き込まれ殉職しました。
また、八田技師の奥さんも戦後、八田技師の後を追うように烏山頭ダムに投身自殺を遂げたといわれています。
台湾で評価されている日本の偉人
その後、烏山頭ダムは機能し続けていますが、現在大きな役割は曽文渓ダムに移っています。烏山頭ダムを世界遺産にしようと現地では、署名活動が行われており近い将来、世界遺産になる日が来るかもしれません。
八田技師は現在の台湾と日本の友好関係を築いた一人と言えるでしょう。
その証拠に2011年に八田與一記念公園が現地に整備され、2013年には銅像が建立されたのでした。
で、ここまで読んでいただいた方は、八田技師が私のおじさんと思っている人も多いかもしれません。
ここまで引っ張ってすみませんが、残念ながら違います。
さんざん、八田技師の話を書いてきましたが、実はもう一人台湾で大規模な水利事業を行った人物がいるのです。
というわけで、私のおじさんの話はまた次回に続きます。