ニュースに不可欠な「新しい」の捉え方が、新聞とインターネットでは決定的に違っているのではないか。
前職の毎日新聞を退職し、2016年にウェブメディアに移籍してから、常に考えてきたのは、「ニュース」とは何かということだった。
初めての単著『リスクと生きる、死者と生きる』は、私がインターネット上で発表してきた、東日本大震災、福島第一原発事故をテーマにした記事をもとに、大幅に加筆した一冊である。
それと同時に、インターネットで私がやりたかった「ニュース」を実践した一冊でもある。どういうことか。
新聞にとって「新しい」とは、端的に直前の朝夕刊の紙面に掲載されていないものを指す。しかし、ネットは違う。ある時、何気なくアクセスしてみる。
そこで、最新の情報を手に入れるだけで終わる記事、あるいは、ちょっとしたら古びていく「スクープ」を消費しただけで終わっていく記事もあれば、対照的に何年も前に書かれたものなのに、読む人の心に新しさを残す文章もある。
前者はネットの速報性、後者はアーカイブするメディアとしてのネットの特性をあらわしている。
ネットにおける速報性はテレビや新聞が体現してきた価値観を、より推し進めたものである。新聞は「今、この瞬間」を記録することを第一に考えるメディアであり、そのために文体もいくつかのパターンに固定されている。
一瞬でも早く、誰が書いてもトーンが統一されていることを第一に要求される。新聞紙面の活力は、突き当たった素材であり、エピソードの面白さから生まれる。彼らにとって一瞬で消費されること、古びることはある意味で美徳だとも言える。常に次の新しい「素材」を探し求めていくことで存在を証明するからだ。
ネットでは新聞が朝夕刊でやっていたことを、さらに早く時間単位で競える環境が整った。一瞬に賭けるということは、同時に長く読まれることを放棄することを意味する。速報への着目は、一歩間違えると「素材」や「エピソード」の面白さだけを求めていく考えに転化する危険性がある。
私は移籍にあたって後者の「新しさ」を意識的に志向した。ネットの世界に少ないものをやりたいと思ったし、なにより震災や原発事故を取材にするにあたって、瞬間で消費されないものを大事にしたかった。簡単に古びない読み物もまたニュースであるという考えにこそ、ネットメディアの大きな可能性があると踏んでいた。
常に記事がアーカイブされていくことを大事にして、いつ、どこで読んでも、読者が読んだ瞬間に新しいと思ってもらえる何かがあれば、今までのニュースの枠に留まらないものが書ける。ニュースでありながら、長く時間に耐えるものを書こうと思えば、すぐに古びてしまう「いま、この瞬間」を記録することから適度に距離を取ったもの、そして簡単には古びないテーマを持たないといけないと思った。
書き下ろしを除けば、この本に収めた文章の初出はすべてネット上に書いたものだ。その中には、1本あたり1万字を超える記事も含まれている。硬派なテーマを、長く書く。同業者—特にネットメディア界隈から—聞こえてきたのは、「いまさら震災や福島、原発事故の話なんて読まれるのか」「スマホでそんな長い記事なんて読めない」という声だった。
私が賭けた可能性は、疑問を持たれたり、笑われたりするようなものだったのだ。結果は、発表時からそれなりのアクセスを集め、話題になったものもあれば、他メディアが同じ話題を後追いして報じたものもある。そして、1年後でも読まれ続ける記事もあった。
つまり、硬い話も読まれるし、長い記事であっても書き手が丁寧に書けば読まれていく。そして、一冊の本にするに価するテーマを込めることもできるのだ。