あの人が今生きていたならば、この世界を見て何を思い、どのようなヒントを与えてくれるのだろうか。かつての大混乱時代を生きた政治家や科学者、文学者など各分野の偉人たちの思想を、研究者・識者に聞く。第3回の偉人は英国の宰相、ウィンストン・チャーチル。チャーチルを長年にわたって研究してきた、関東学院大学の君塚直隆教授に聞いた。(聞き手 森 永輔)
第二次世界大戦の時に英国の舵を取ったウィンストン・チャーチルが今の日本を見たら、現状をどう認識すると思いますか。
1930年代に入ると、ドーバー海峡を挟んだ欧州大陸で新興国ドイツが台頭。第一次世界大戦(1914~18年)後に構築された、国境を初めとする秩序を力で壊していきました。
君塚:英国が当時置かれた状況と今の日本の状況が似ていると思うでしょうね。そして、強気の主戦論を展開すると思います。彼は30年代、ナチスドイツを危険視し、「災いの芽は青いうちに摘まなければならない」と毅然とした態度で主張しました。
このため、彼は「war monger(戦争屋)」として批判された。「なぜ戦争を煽るのだ?」と。所属する保守党においても、社会においても、10年にわたって孤立する憂き目に遭っています。彼はこれを自ら「荒野の10年」と呼びました。当時のチャーチルの信条を理解したのは、後にチャーチル戦争内閣の外相を務めるイーデンくらいでした。
1935年に英国はドイツと英独海軍協定を結びました。チャーチルはこれに強く反対したそうですね。
君塚:はい。ドイツの海軍力が英国の3分の1を超えてはいけないという条項を柱とする協定です。
ドイツは第一次世界大戦の敗戦を受けて軍備を大幅に制限されました。海軍の艦船は1万トン以内に。潜水艦の保有は禁止。ところが英独海軍協定によって艦船を新造できるようになった。潜水艦Uボートの保有にも道が開かれました。
チャーチルは1938年9月に結ばれたミュンヘン協定にはどのような態度を取ったのでしょう。英国とフランスはドイツとの戦争を避けるべく、ヒトラーに譲歩し、チェコスロバキアの一部、ズデーテン地方のドイツ編入を認めてしまいました。チェコスロバキア政府はこの会議に招待されることもなく、その意向を完全に無視されてしまった。
君塚:もちろん、反対しています。
当時の英国は、政府も議会も国民もドイツに対する宥和的な空気に満ちていました。ミュンヘン協定に調印して英国に戻ってきた英首相チェンバレンは空港に降り立つと、協定書を持った手を高く上げ成功を誇示。マスコミは「名誉ある平和(Peace with Honour)」と書き立てたのです。
宥和主義がどのような結果を招いたかはその後の歴史が語るとおりです。1年を待たずして、ヒトラーはポーランドに侵攻。チェンバレンが騙されていたことが明らかになりました。
チャーチルが孤立してまで主戦論を曲げなかったのは、彼が軍人だったからでしょうか。チャーチルは軍人としてインドや南アフリカでの戦争に参加し、修羅場をくぐった経験を持ちます。
君塚:それもあるでしょうね。加えて、彼が反共主義者であったことと、バランス・オブ・パワーの信奉者であったことが挙げられます。
彼はナチスドイツを共産主義の派生形態と捉えていました。その著書『第二次世界大戦』の中で、「ドイツとイタリアは共産主義の宣伝にほとんど屈服した」「ファシズムはコミュニズムの影であり、その醜い子である」と記しています。ナチス党の正式名称は「国民社会主義ドイツ労働者党」です。