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なぜ信長は討たれたか “本能寺の変”新説

「敵は本能寺にあり!」。戦国武将の明智光秀が向かったのは、対立する戦国大名の軍勢ではなく、京都の本能寺にいた主君の織田信長でした。有名な「本能寺の変」です。何度も歴史ドラマや映画で描かれたシーンですがどうして光秀は信長を討ったのか?「信長にいじめられたから」「天下を狙ったのでは」。その動機については、今もさまざまな意見があります。
そんな中、新たな研究成果が今月発表されました。光秀が本能寺の変の10日後に書いたと見られる直筆の書状が見つかったのです。見えてきたのは、歴史の教科書を書き換えるかもしれない、新たな歴史のストーリーでした。
(津放送局記者 三野啓介)

諸説入り乱れる

光秀による突然のクーデター。その動機は大きな謎とされ、諸説が入り乱れています。

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まず、代表的なのが信長からの仕打ちに個人的な恨みを抱いたからだとするもの。信長が「はげ頭」と光秀にあだ名をつけてばかにしたとか、大勢の前でどなりつけて恥をかかせたことなどへの恨みを晴らしたとする説です。
また、光秀が天下を狙ったというものもあります。信長を倒すことで自分が信長の権力を奪って天下人になろうとしたというものです。
さらには朝廷が裏から光秀を操っていたという陰謀説も。どの説も好奇心をくすぐり魅力的ですが、どれも決め手に欠けているというのが実情のようです。

新資料を確認

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そんな中で今回の発見がありました。岐阜県美濃加茂市の博物館に所蔵されていた書状が、本能寺の変の直後に書かれた、光秀直筆の書であることがわかったのです。

博物館から連絡を受けて書状の調査に当たった三重大学教育学部の藤田達生教授によりますと、筆跡やサインにあたる花押がほかの資料と一致していること、それに書状が小さく折りたたんだ「密書」の形式を取っていたことから、直筆と判断できるということです。

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直筆の書状からわかること

この書状、本能寺の変の10日後に、今の和歌山県で信長に抵抗していた勢力の土橋重治というリーダーに宛てられたものです。

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藤田教授は、その書状から光秀が本能寺の変を起こした狙いがわかると言います。書状の中では、位の高い人を指す「上意」という言葉を使ってその人物が「御入洛」すること、つまり京都にやってくる、と伝えています。藤田教授は、信長がいなくなったあとで光秀が「上意」という言葉で指し示す人物は、かつて自身が仕えていた室町幕府の将軍だった足利義昭以外には考えづらいといいます。つまり、義昭が京都に帰って来ることを光秀が伝えているというのです。

信長と義昭の対立

そもそも、書状が書かれたのは天正10年(1582年)6月12日。本能寺の変の10日後に当たり、中国地方から引き返して来た信長の重臣の羽柴秀吉に光秀が敗れる山崎の合戦の前日です。そして、この書状を読み解く際に鍵となるできごとが、本能寺の変からおよそ10年前、信長が室町幕府の将軍の足利義昭を京都から追放したことでした。もともと、信長は義昭を奉じてその権威を使って京都を占領しましたが、次第に対立を深めて1573年に京都から義昭を追放していたのです。

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義昭は追放後も…

義昭を追放したあと、信長は各地に兵を出して天下の統一を進めますが、藤田教授は、義昭が各地の大名などと連携して信長に対抗していたと考えています。

京都を離れた義昭は、特に中国地方の毛利氏から支援を受け、全国の大名への影響力を持ち続けていました。そうした中で、義昭側に寝返った光秀が信長を討って義昭を京都に連れ戻し、室町幕府を再興しようと本能寺の変を起こしたと言うのです。義昭と光秀が一緒に本能寺の変を企てたかどうかを直接裏付ける資料は、まだ見つかっていませんが、義昭の存在が本能寺の変につながっていたのです。

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苦境に立っていた光秀

それでも、どうして危険を冒して信長を裏切ったのか謎は残ります。

その謎を考える手がかりとなるのが、光秀と、四国の戦国大名、長宗我部元親との関係です。
光秀は、元親とは、家臣の縁戚を通じて近い仲でした。しかし、信長は、天下統一を目指すため、当初の方針を変更して元親を攻撃しようとしていたのです。光秀は、自身が影響力を持つ元親に四国を支配させることで、家中での地位を高め秀吉などのライバルとの争いを勝ち抜こうとしていました。信長の四国攻撃は、光秀の家中での競争の敗北を意味します。それを見越した光秀が、挽回の策として本能寺で信長を討ったのではないか。

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もともと義昭の家臣だった光秀が、義昭と結んで信長を討ち、幕府再興を目指すことは、実は、みずからの保身を求めた現実的な選択肢だったのかもしれません。
歴史が好きな私(記者)には、追い込まれた光秀が生き残りを目指して行動を起こした姿が、思い浮かびます。

20年来追い求めて

今回、研究成果をまとめた藤田教授。実はこの書状、明治時代に作成された原本の写しが東京大学に所蔵されています。このことから、藤田教授は本能寺の変の目的は幕府再興にあった可能性は以前から考えていました。しかし、肝心の原本の行方は知れず、本当に光秀が書いた物として存在しているのか分かっていませんでした。
そんな中、原本と見られる書状が売りに出されているのをある市民が買い取り、その後、美濃加茂市の博物館に寄贈していたのです。
ことし5月、連絡を受けた藤田教授は初めて、この書状に対面しました。原本を20年来追い求めてきたという藤田教授、対面したときは感動のあまり、胸が震えたと言います。「生きているうちに出てくるとは思わなかった」と感激していました。

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歴史の枠組みを見直す議論を

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藤田教授は、今回の書状から読み解くべきなのは、本能寺の変という一つの事件とそれを引き起こした光秀の動機の解明だけではなく、歴史の大きな枠組みだと言います。それは、光秀が義昭を連れ戻して幕府の再興を目指したとすれば、1573年に室町幕府が滅亡したという歴史の見方が間違っていることにもなるからです。信長と義昭という対立が1573年以降も続いていたことが、本能寺の変の背景として見えてくるとしています。藤田教授は「歴史の大きな枠組みを見直すような議論が巻き起こることを期待している」と話していました。

三野啓介
津放送局記者
三野啓介

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