こんにちは。店通ライターのmomoです。
みなさんは上杉鷹山という人物をご存知ですか?
第35代米国大統領ジョン・F・ケネディが日本で最も尊敬する政治家として名を挙げた人物であり、戦国の雄・上杉謙信から続く名門上杉家9代藩主です。
鷹山は江戸中期に様々な改革を行い、財政破綻寸前まで追い込まれた米沢藩を再建しました。
2007年に全国の自治体首長を対象に実施された「理想のリーダーは誰か?」という読売新聞のアンケートでは、第1位に輝いている人物でもあります。このように、今なお経営のカリスマとして多くの人に尊敬され続けている、上杉鷹山の経営再建術をご紹介しましょう。
再建成功の秘訣は「倹約」にあり。自らも率先して行った政策
■倹約誓詞日向国(宮崎県)高鍋藩6代藩主秋月種美の次男として生まれた鷹山は、幼い頃から聡明な子供でした。母方の祖母が米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘であることが縁で、10歳で米沢藩8代藩主重定の養子となります。
豊臣政権下での上杉家の石高は120万石でしたが、鷹山が家督を継ぐ頃(1767年頃)には15万石まで激減していました。収入が減ったにも関わらず、名門の誇りを捨てられない上杉家では、家臣の数を減らすことなく華美な暮らしを改めませんでした。
その結果、米沢藩の借金は16万両(約160億円)にまで膨れ上がり、いっそ幕府に領地を返上してはどうかという意見が聞かれるほどでした。
しかし、江戸藩邸にて家督を継いだ鷹山は、倹約を誓う「倹約誓詞」を春日神社と白子神社に奉納し、米沢藩再建を決意します。
■大倹約令の発布
鷹山は御領地高並御続道一円御元払帳、現在でいう財務諸表の作成を行い、1年間の収支及び借入を明確にしました。
債務超過に陥っていることを知った鷹山は、江戸藩邸にいた家臣に財政改革案をまとめるよう指示します。
この改革案に手を加え、明和4年(1767年)に12ヵ条からなる大倹約令を発令し、江戸藩邸にいる家臣ばかりでなく、国元にいる家臣にも食事は一汁一菜、着る物は木綿とすることを命じたのです。
鷹山自身もこれを実践。さらに生活費をそれまでの7分の2まで削り、奥女中も50人から9人へと減らして質素倹約に努めます。
改革は一人では成し得ない。重要なことは、改革の火を移していくこと
大倹約令発布2年後の冬、鷹山は米沢藩に向けて出発します。米沢に向かう途中、駕籠の中から初めて見る米沢の光景は、荒れ果てた田畑、活気がない領民と、まるで火鉢の中で冷たくなった灰のようでした。
ふと駕籠の中にあった火鉢をいじってみるとまだ火のついた小さな炭が。新しい炭に足し火を移していくと、徐々に火鉢の火は広がり再び暖かくなりました。
これを見た鷹山は、この火鉢を手に江戸から共に米沢へ下ってきた家臣を前にこう言います。
私は米沢の惨状を目の当たりにして絶望した。
まるでこの冷めた火鉢の中の灰のようだ。いくら灰に種を蒔いたとしても花が咲くことはないのかもしれない。
だかしかし、この火鉢の奥底にはまだ火のついた炭、火種があった。これに新しい炭を足したところ、火は燃え移り再び火鉢は暖かくなった。この火種こそがお前たちなのだ。米沢に入国した後はそれぞれの持ち場においてこの火種を人々に移して欲しい。
私が行おうとしている改革はそう簡単なものではない。いくら火を移そうとしても湿っていて火の移らない者、火を移すことを拒否する者と様々であろう。それでも中には火を移されることを今か今かと待ち侘びている者がいるかもしれない。その者を見つけ出し、一人でも多くの人に火を移して欲しい。改革は私一人でできるものではない。どうかみなの力を私に貸してくれ。
この言葉に感銘を受けた家臣はみな改めて鷹山と共に改革を実行していく決意をしました。自ら率先して改革を行い、一人ひとりに改革の火を移す。これこそが鷹山の改革成功の要因の一つとなりました。
鷹山が打ち出した常識破りの政策とは?
その後米沢入りした鷹山は、改革がまったく進んでいないことに愕然とします。何事にも上杉家の体面を重んじる重臣が鷹山の改革案に反発し、一切藩士たちに伝えていなかったからです。
鷹山は自分が行おうとしている改革が前途多難であると痛感しますが、決して諦めませんでした。
まず下級武士に荒れた土地を開墾することを命じて農業改革に取り組みます。兵農分離が常識の江戸時代において、武士が農業をすることは非常識なことと考えられていたため大変な反発がありました。
しかし、自ら籍田の礼(鍬をふるって田を耕し豊作を願う)を行うことで領民の理解を得、徐々に荒れた土地が生まれ変わり年貢を増やすことに成功します。
次に、米沢は寒冷地であるため稲作だけでは収入が安定しないと考えた鷹山は、漆や楮、桑、紅花などの栽培を奨励しました。
農民だけでなく藩士にも自宅の庭でこれらの作物を植えて育てることを命じ、自らも城内で栽培します。育てることに留まらず、他藩から技術者を招き、藩士の家族(妻・老人・子供)に漆の実からロウソクを、楮の皮を剥ぎ和紙を、紅花の花から染料を、桑の葉で蚕を飼い生糸を紡いで絹織物を作ることを命じたのです。
これにより、それまで疎んじられていた藩士の家族の意識が変わり、今でも残る米沢織などの手工業の発展へと繋がり、収入が増えていったのです。
身分に囚われずに個々人に役割を与え、更には製品に付加価値を付けて収益構造自体の改革を行う常識破りの政策は、今の世でもそう容易く出来ることではありません。それを自らも行うことによって、領民たちの理解をきちんと得た事が功を奏したのでしょう。
為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり
鷹山は、推し進めた改革の火を絶やさないためには人材育成が重要であると考え、安永5年(1776年)に藩校を創設し、『興譲館』と名付けました。儒学者 細井平洲を招き、藩士の子弟を中心に漢学、筆道、習礼等を学ばせます。この講習は藩士の子弟だけでなく、学びたいと思う者であれば誰でも聴講を許されました。
鷹山の改革の火はこうして後世に受け継がれ、今でも山形県の学習レベルは高く優秀な人材を輩出し続けています。
鷹山が家督を継いでから56年後の文政6年(1823年)、ついに最大30万両もあった米沢藩の借金が完済されました。
残念ながら鷹山はこの借金完済を見届けることなく、前年の文政5年(1822年)に72歳でこの世を去りました。しかし、鷹山の志は実を結んで米沢藩の財政は健全化し、その後も大きく発展していきます。
『為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり』
これは上杉鷹山が家臣に向けて詠んだ歌です。『人が何かを為し遂げようという意思を持って行動すれば何事も達成することができる。結果が得られないのは、人が為し遂げる意思を持って行動しないからだ』と言った鷹山のように、何事も諦めず強い意志を持って行動すれば良い結果を得ることができるのではないでしょうか。
上杉鷹山から学ぶ経営術
・改革を行うためには、自ら率先して政策を実行し、社員一人ひとりに改革の火を移すこと・社内のやる気ある社員に目を向けて適した役割を与え、収益構造改革に取り組むこと
・何事も諦めず強い意志を持って行動すること
生涯に渡って改革の火を人々に灯し続け、藩政だけでなく人々の意識をも改革した上杉鷹山は、現代になっても学ぶべきことが多い人物です。
momo
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