0.初めに
 9月も終盤に差し掛かり、2017年夏アニメも続々と最終回を迎えている。ぼちぼち今期アニメの感想記事も書き始めないとなあなどと考えている今日この頃ではあるのだが、その前に描いておかなくてはいけないことができた。タイトルからもわかるように2017年夏クールに絶賛(?)放送中のTVアニメ、『異世界はスマートフォンとともに。』(以下伊勢須磨と表記する)のことである。僕は原作小説にはまだ手を出していないので、現状ではアニメについてのみの議論になることをご承知いただきたい。

 この記事を読んでくださっているみなさんは伊勢須磨のことが好きだろうか? それとも嫌いだろうか? それがどちらであっても是非この記事を最後まで読んでみてほしいと思う。僕という一人のオタクがどのように伊勢須磨を見ているのかについて簡単にまとめてみたつもりである。

 世間的には今伊勢須磨の話というと第11章(伊勢須磨アニメにおいて話数は「章」でカウントしている)に関連する話題だろう。もし第11章に関する騒動を知らない人がいたらいけないので一応説明しておくと、第11章「ぱんつ、そして空中庭園。」の放送直後から今にまでいたる一連の伊勢須磨叩きと伊勢須磨叩き叩きの争いのことである。僕としては伊勢須磨という楽しい作品が誰でも自由に叩いていいサンドバックとして殴られ続ける状況は当然不快極まりないのだが、しかし決してこの記事は第11章を擁護するために書かれたものではないということはご理解いただきたい。ただこれだけは言っておくと、「話題になっているから」という理由でいきなり第11章を見てそして叩くなどという作品に対して失礼極まりない視聴はやめてもらいたい。みんなが叩いているものはとりあえず叩いておけばいいのだと認識することがどれほど恐ろしいことか。

 さて少し前置きが長くなってしまったが、次からが今回の記事の本文である。

1.伊勢須磨と私

 いきなり恋愛依存症のメンヘラみたいな章タイトルになってしまい申し訳ないが、この章では伊勢須磨に対して僕がどのような感情を抱いてきたのかを簡単に振り返ることとする。

 まずは放送開始から第2章あたりまではかなり厳しい評価をしている。まだ何に注目して視聴するかが定まっていなかったがゆえに、あまりにも早く進展するご都合展開に困惑してしまったのだ。死を一瞬で受け入れる主人公、なんでも一つ異世界に持ち込んでいいと言われてスマホを選ぶ文脈が全くないこと(例えば転生前の冬夜が描かれそこでスマートフォンに依存している描写があったりするならわかる)、学生服を大量の現地通貨に変換してくれるだけの商人の登場などがそうだ。この流れるような展開はまさに頭の中を流れ去るようなものであり、面白いという気持ちもつまらないという気持ちも生まないものに感じられた。

 その後第4章まで録画を貯めてしまったのだが、このころインターネットでは「まるで将棋だな」が話題となっていた。この時にはすでに雑に流行に乗って殴りたいオタクに目をつけられてしまっているのではないかという思いがあった。そしてこの録画を一気に回収した時に僕は認識を変えるようになる。何が僕の認識を変えたのか、それはこの異世界における魔法の存在であった。正確にいうと魔法体系の在り方から感じられるもの、と言えばいいだろうか。これについては後述する。

 そして第5章が訪れる。すでに第5章が何の話だったか忘れてしまった方もいるかもしれない、そうスライム回である。あの回で僕は完全に伊勢須磨という作品を好きになってしまった。もちろん展開の頭の悪さ加減もそうだし、あの回ではじめて冬夜という主人公にも人間味を感じられたというのもあるのだが、一番の気付きはこの世界が望月冬夜というキャラクターのためだけに作られたものだということであった。第3節ではこれらについて書いていくこととする。

2.誰がために異世界はある

 異世界は誰のために存在するのだろうか。僕たちが現実世界を生きている時、多くの人にとって世界というのは自分だけのために存在するものではない。時には自分にとってつらい現実ばかりが降りかかってくる。異世界転生作品に対してよくある言説として、「異世界転生は現実でうまくいかない人間が逃避先としての異世界を求めているのだ」というものがある。なるほどいかにももっともらしい言説である。現実はつらく、それからすれば異世界はなんと楽しさに満ち溢れていることだろうか。いやしかし本当にそうなのだろうか? 僕は別に異世界転生大好きオタクではないので、そこまで多くの異世界転生作品に触れているわけではない。アニメで数作品見たぐらいである。アニメ化作品しか見ていないということは、つまり異世界転生の業界でもメディアミックスできるほどに人気のあるものだけを見ていると言って差し支えないだろう。ではこれらの人気の異世界転生作品はどれも現実からの逃避なのか? 以下で異世界転生について考えていくが、ここでの異世界転生作品とは主人公がもといた世界(限りなく現実世界と近い)から死亡あるいはそれに類する状態になって異世界に自身の存在を移すことを指し、例えば『DOG DAYS』や『異世界食堂』のように往来が可能なものは除くこととする。異世界転生作品において主人公は望むと望まぬとにかかわらず異世界でこのあと生きていくことが強いられる。
 つらく苦しい現実から逃げるのであれば、本来創作上の世界である異世界においてわざわざ苦痛など用意する必要はないだろう。しかし例えば『この素晴らしい世界に祝福を!』では異世界暮らしの楽しさが中心的に描かれてはいるが、主人公は借金にまみれたり投獄されたりと決して順風満帆ではない。『Re:ゼロから始まる異世界生活』に至ってはタイムリープものとの組み合わせである関係上とにかく主人公は困難にぶつかり続けることになる。
 このように異世界だからといってつらいことがないわけではないのだ。それどころか物語の盛り上がりというのはやはり困難を乗り越えるところで生まれているのである。これはある意味当たり前のことであると言えるかもしれない。異世界転生作品だって娯楽として売れることを目的に書かれているのだから、読者が息をのむような展開を用意しなければならないのだ。そして多くの読者は結局のところ困難の打開を求めるのである。つらく苦しい現実で困難と闘っているからこそ、創作の中の人物にも困難の打開を求めるのだ。そうすることで主人公に共感できるようになり、カタルシスを得ることができる。
 ここまで書けばはっきりすることだと思うが、異世界転生は決して現実からの逃避ではない。ではなぜ現実ではなく異世界で主人公は困難に見舞われなければいけないのか。それは異世界という舞台が非常に便利だからである。
 現実世界というのは何かと制約ばかりだ。科学技術にはできないことがあるし、法治国家に生きる人間は自由に暴力をふるうこともできない。そして好きなだけ暴力をふるっていい明確な敵というのは存在しない。それに例えば日本における年功序列型社会や教育課程などは主人公を若者にしたときに彼らの行動、あるいは台頭を許さないことがあるだろう。これらから手っ取り早く主人公を、読者を、そして作者を解き放つのが異世界なのである。「ここは現代とは異なる世界なのだから、これが当たり前なのだ」だけで(もちろんこの言い方に説得力を持たせるのは作者の異世界観構築次第だ)物語に最適な状況を用意することができる。
 異世界転生のもう一つ大事な要素として、主人公が異世界を異世界と認識していることがあると僕は思っている。主人公に共感することで多くの読者は困難を乗り越えるカタルシスを得るというさきほどの話とも併せて考えると、主人公は異世界という現実とは違う世界に対応を求められる。これは現実世界で異世界転生作品を読む読者と同じである。読者もまた主人公同様現実とは違う世界を手探りで理解していかなくてはいけない。そのときに読者の目となり手となるのが主人公なのである。こうすることで一緒に少しずつ異世界の世界観に馴染んでいき、読者はより主人公に共感することができるようになるのだ。

 さてでは改めて今節のタイトルにもした疑問に戻ってみよう。異世界は誰のために創られるのか。ここまでの思考をまとめれば主人公のためではないだろう。主人公は現実だろうが異世界だろうが種類は変われど困難に直面させられる。では読者のためか? これは少しあるかもしれない。読者が中世風ファンタジーを求めているというのは首肯しうる仮説だ。ただこの仮説を立証するためには市場調査をする必要がある。次に作者はどうだろか。これもあるように思われる。少し悪意のある言い方をすれば突っ込まれることなく自由に描ける世界は作者にとって都合のいいものだろう。ただこの仮説も立証できるかと言われれば難しい。
 ここでは誰のために創られるのかという問いに正面から答えることはしない。しかし少なくとも、主人公のために異世界が創られることはあまりないということはできるのではないだろうか。

3.伊勢須磨の特異性

 前節では異世界転生作品における異世界は別に主人公にたいして特別優しいものではないという話をした。今節ではそれに対して伊勢須磨の世界がどう特異かを考えてみたいと思う。

 この記事のタイトルにもしたように、伊勢須磨の世界は魔法なしには語ることができない。この世界の魔法は7つの属性に分けられている。この世界の人間は時々魔法の才能を持って生まれることがあるが、その才能は属性ごとに存在し、複数の属性魔法を操ることができる者から1属性だけ操ることができる者、そしてどの属性魔法も操ることができない者までいる。そしてそれらの属性魔法とは別に無属性魔法と呼ばれる魔法が存在し、これは人間一人ひとりに対して一つ生まれたときから備わっていることがあるものである。無属性魔法の使い方は持ち主には自然と理解できるものであり、先述した属性魔法を操ることができない者でも無属性魔法だけで世間を渡り歩いていくことができたりもする。つまりこの世界の原住民にとって魔法とは体系化され7つに分類された属性魔法と例外的存在として個人に宿る無属性魔法とを合わせたものなのである。無属性魔法は個人に宿るものであるから、種類は大量にあるがその使い手は一人しかいない。それゆえに広大な例外範囲が設定された魔法観ができあがっている。
 ところが冬夜は神様からもらったチート能力によってすべての属性魔法を操ることができるばかりか、なんと無属性魔法さえも存在を知ればすべて使用することができるのである。この世界の原住民にとってはアクセス不可だった無属性魔法という広大な領域をすでにすべて手中に収めてしまっているのだ。冬夜にとっては属性魔法こそが他にも使える人がたくさんいるという点で例外的存在なのである。パーティー内における属性魔法の使い手であるリンゼをいらない子にしてしまわないためにも冬夜は属性魔法をほとんど使わない。
 またこの世界の魔法詠唱はびっくりするぐらい味気ない英単語であることが多いが、どうやら原住民にとってはこれらの単語は理解できないものであるらしい。詠唱の意味を理解していることで精度が増すという魔法の性質と一緒に考えれば、もはや使ってすらいない属性魔法においてすら冬夜と原住民の間には力量差があることがわかる。
 なぜ異世界の魔法が冬夜の世界の言葉を使っているのかというのは流石に作品の本質にかかわる設定だと思うのでここでは触れないこととする。もし意味もなくそうしているんならあまりにもお粗末すぎるし、商業展開している作品なんだからそれくらいは信じるべきだろう。

 さて、この世界の魔法というのは言ってしまえばすべて冬夜が優位になるようにできている。冬夜が魔法による戦闘で敗北することがあるとすれば、未知の無属性魔法で重傷から即死級の攻撃を受けた時ぐらいだろうか。獣王戦のことを考えれば、相手が無属性魔法で優位に立ったとしても即座に同じ土俵に持っていけるのだから一撃で勝利しないならば無属性魔法での勝利はつかめない。そして思い出してほしいのだが、冬夜は神様による肉体強化で並外れた身体能力と”すぐには死なない”身体を得ているのである。つまり敗北しえないように世界観からして設定されているのだ。
 もう一つあるとすれば精神干渉系の無属性魔法が存在していた場合だろう。しかし少なくともアニメの現時点まででは精神干渉をする魔法は出てきていないように認識している。

 先ほど異世界は多くの場合主人公のためには創られないと書いた。しかし上記のような世界観を考えれば考えを改めるべきだろう。伊勢須磨においては異世界は冬夜のために創られている。冬夜がやろうと思ったことはすべてできるように創られているのだ。それは生に執着がない冬夜がこの異世界でも生き続けていくために神様が配慮してくれたことなのかもしれない。

 言うなればこの世界はパズルなのである。世界観からして冬夜は必ずやりたいことをなせるようにできている。成功率100%の問題にどのような手順を使って回答するかというのを見ているのだ。だから例えば第10章で海底遺跡に向かうときも別に潜水艦を作ってもいいのだし、ダイビングセットを作っても良かったわけだ。しかし作中ではなんかもうとりあえず最強クラスとされている四神の一柱を倒して従えるという手段を取るわけである。もうなんでもありかよ、と思うかもしれないが実際なんでもありな力を持っているのだからなんでもありなのだ。
 つまり冬夜は困難に直面することがない。冬夜のためだけに創られた世界なのだから冬夜に対する困難などそもそも存在しないのだ。ここで他の作品のように主人公への共感と困難を乗り越えるカタルシスを求める層との齟齬が生じる。これらの層にとっては「ご都合主義展開」とも見える展開は実際はご都合ではない。そもそも困難が存在しえない世界なのだからすべてが必ず解決される。その中でその時冬夜がやってみたいと思った解決方法をしているにすぎないのだ。
 ここの認識が変われば伊勢須磨という作品の見方も大きく変わってくるのではないだろうか。「なんだよその展開意味わかんねえよ」という感想はむしろあるべき姿なのだ。目の前の問題を如何に予想外に、あるいはスマートに突破するかに伊勢須磨のエンターテイメント性はあると僕は思う。

4.伊勢須磨と極楽

 前節では伊勢須磨の世界が望月冬夜ただ一人のために創られた世界であるという話をした。この世界において冬夜はやりたいことがなんでもかなうのだ。こうした世界を僕たちはなんと呼ぶだろうか。そう、「極楽浄土」である。 
 極楽浄土を求めることは決して現代に特有のものではない。世界各地の宗教において、死後の世界としての苦しみのない世界が提示されている。ここでは特に僕も使っている極楽浄土について調べてみた。
 僕は別に仏教思想に詳しいわけではないのでほとんどがインターネットで調べた知識になってしまうのだが、極楽はサンスクリット語では「幸福のあるところ」というふうに言うらしい。そしてその音を漢字表記する方法の一つとして須摩題、というのがあるそうだ……えっ伊勢須磨は伊勢須摩だったのか!! まあ流石に深読みを前提にしてさらに深読みしてその上で深読みを加えたみたいなウルトラCなので偶然だとは思うが、あまりにもきれいにすべてのピースがはまって感動してしまった。こうして世のトンデモ学説は生まれていくんだなぁと今実感している。

 さて話を極楽に戻すと、もう一つ気になることがある。それは異世界転生のはじまりについてだ。異世界転生の定義にもしたのでみなさん覚えていてくださるとは思うが、主人公は必ず最初に死亡またはそれに類する状態になってから異世界へとやってくる。これは異世界「転生」と言っているのだから別段不当な定義付けではないと思う。そして冬夜も定義に従って神様の手違いで死亡したところから描写がはじまった。
 そう、達観した、言い換えれば悟ったような少年が死んだあとに訪れた世界が極楽なのである。なんだこの整合性の塊は! また感動してしまった。完全に面白学説を引っ提げて学会に突入し門前払いをくらう人みたいな気分になっている。

5.本当にすべてが冬夜の思うがままなのか?
 極楽とは幸福のあるところであり苦しみのないところである。幸福とはつまりやりたいことがなんでもできるということだ。しかし本当にこの世界において冬夜は全能なのだろうか。もし全能ならばそれはもはや神様ではないか。
 先ほど冬夜が敗北する可能性があるとすれば即死か精神干渉であると書いた。ここにヒントがあるように思う。今までのところ少なくともアニメでは精神干渉をするような魔法は出てきていないはずだ。というのも、それまでできてしまっては冬夜に向けられる信頼や愛情といった感情が説得力を失うからではないかと僕は思っている。なまじ魔法に関しては万能な存在であるがために、もし精神干渉の魔法が存在するとなってしまうとそれを冬夜が知って以降のすべてのキャラクターの思考についてそれが自発的なものであるかどうかの信頼性が落ちてしまう。だからこそ精神干渉の魔法は登場していないのではないだろうか。 
 戦闘があるような魔法を扱う作品においては従属魔法や催眠術などのような精神干渉は決して珍しいものではない。それにもかかわらず伊勢須磨においてそういった魔法が出てこないことにはなんらかの意味があるのではないかというわけである。

 そしてこれは転じてこのやりたいことはなんでもできる世界において冬夜ができないことでもある。冬夜はどれだけ身体能力が高く、すべての魔法を使うことができても、人の心までは自由にすることができないのである。しかしこの制約のおかげで冬夜はラブコメができているのだ。やはりこの伊勢須磨という作品、僕たちが思った以上に緻密な作りの上で頭の悪い展開をしているのではないだろうか。

6.おわりに
 前節までで僕なりの伊勢須磨の楽しみ方については書けることを書いたはずである。しかし当然ながらみなさんにこの視聴法を強要するわけではないし、主人公に困難の突破を求めることが悪いとも思っていないということだけは述べさせていただきたい。僕はただ、僕が楽しんでいる作品がサンドバックにされているのは癪だったので僕なりの楽しみ方というのを発表したにすぎない。
 ただ僕は自分自身をあまり信用していないので、ここまで書いてきたこともすべてはあまのじゃくな僕がひねり出した詭弁でしかないのではないかという思いも常に抱いている。僕が結局のところ流行りに乗りたがらず人とは違うことに価値を見出す人間であることは認識しているからだ。この記事を読んでみなさんは僕の考えにどの程度理解を示してくれたのだろうか。伊勢須磨という作品をめぐるオタクの議論が少しでも活発になる手伝いができたのならそれで満足である。

 最後に、この記事を読んで伊勢須磨を楽しんでいるオタクの文章を他にも読んでみたいと思った方にお勧めのブログ記事を載せておく。クゥ氏の「異世界にスマートフォンは必要か?」という記事である。今後氏や僕と伊勢須磨の魅力について議論してくれる伊勢須磨学会員が増えることを祈っておわりとさせていただきたい。