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宮川氏の許可を得て、記事を転載致します。
拡散OKです。
不思議なる縁( えにし )シリーズNo.7 久遠の友との出会い
尊敬する妙法のジャンヌ・ダルク、シルビア・サイトウさんーーー
南無妙法蓮華経の祈りの力と師弟不二と言う崇高な力の融合した、
一念三千の大波動を使った「 法華経の兵法 」で、大ブラジルの天地を
妙法潤う国土に変えた愛するシルビア・サイトウさん。
その崇高な戦いを讃えられた先生( 仏 )のスピーチと
その後、沸き起こる題目と、師弟勝利の渦を破壊する秋谷、原田( 提婆 )ラインの
巧みな魔の謀略を検証したい。
師弟分断の魔の蠢動を見抜く弟子たれ!
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池田大作全集スピーチ(87)
第10回本部幹部会
(1997年4月21日)
1966年(昭和41年)3月が2度目のブラジル訪問であった。
(1966年は、軍政時代。1964年、ブラジルはクーデターにより軍事独裁政権に。
多くの文化人・識者が弾圧され、国外追放された )
この時は、最初から最後まで、どこへ行っても警察に行動を監視された。
もとより、悪いことなど何もしていない。
すべては讒言(人を陥れるためのウソの告げ口)によるものであった。
しかも多くは、何人かの日本人や日系人によって、
「共産主義者である」とか「暴力主義だ」などとレッテルを張られたのである。
警察の監視が厳しく、どうしようもない。
最後の会合をしようと、ある体育館に行った。そこでも、二百人くらいの警官に囲まれた。
会場の入り口にも、出口にも立っている。
こうした状況のため、サンパウロに3泊4日、滞在しただけで出国せざるをえなかったのである。
それから18年間、私はブラジルに行くことができなかった。
ブラジルを訪問する予定が、ビザがおりず、途中で行けなくなったこともあった。
(1974年)
そういうなか、耐えに耐え、祈りに祈り抜いて戦った人がいる。
それはシルビア・サイトウさん。
けなげなる一人の女性である。(ブラジルの総合婦人部長を務めた)
サイトウさんは京都の女子部の出身。
結婚して東京・目黒で活躍したあとブラジルに渡った。
彼女は真剣だった。ただひたすら祈った。祈り続けた。
「どんなことがあっても先生を迎えよう。そして、私たちはブラジルの広宣流布を、しっかり進めよう 」と。
唱題につぐ唱題――それは何百万遍どころではない。
何千万、いな億という数の題目であったろう。
この題目が、今日の偉大なるブラジルSGIをつくった原動力だったのである。
腹を決めた婦人の祈りは強い。
男性は臆病で、ずるい。策に走る場合が多い。
そして18年後の1984年2月、ついに私は3度目のブラジル訪問を果たすことができた。
サイトウさんも、本当に喜んでおられた。(民主化を求める声が高まり、1985年には民政が実現した)
さらに1993年には、ブラジルSGIの素晴らしい自然文化センターで、サイトウご夫妻とゆっくり語り合った。
私が帰国のとき、サイトウさんは飛行場まで来て、別れぎわに言われた。
「先生、ありがとうございます」の一言が、今も忘れられない。
その2カ月後、4月28日(日本時間29日)に亡くなられた。
使命を果たしきった、立派な一生であった。
今、ブラジルの広布の進展ぶりは目を見張る。
その勢いは、世界一かもしれない。
「牧口常三郎公園」(クリチバ市)がある。
「牧口常三郎先生通り」(サンパウロ近郊)がある。
「戸田城聖通り」(クリチバ市)も計画中である。
新たに「戸田城聖公園」(サンジョゼ・ドス・カンポス市)も決定した。
今日のブラジルの礎には、サイトウさんの信心の闘争があった。
そういう人が創価学会にはいた、私の弟子にいたことをうれしく思う。
私の心から永久に離れることはない。
ジャンヌ・ダルクのごとき広宣流布の闘士としての一人の女性の名を、私は永遠に残しておきたい。
(以上、先生のスピーチノーカット 全文)
大聖人は仰せである。
「仏と提婆とは身と影とのごとし。生生に離れず。聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓同時なるが如し。
法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし。」( 開目抄下.230頁.5行 )
仏である釈尊と、大悪逆の提婆達多とは、身に影の沿うが如く、
仏法を信奉し、仏教興隆に尽力し、法華経を講義し重んじた聖徳太子と、
勅による崇仏に反対し、軍勢を起こし排仏を行なった物部守屋が同時代に生まれている如く、
仏と魔は常に同時代、同時期、同教団に生じる。
提婆達多は、釈迦教団の中で、釈尊に次ぐナンバー2の存在であった。
今で言えば、会長である。
日蓮大聖人の時代にも六人の弟子の内、日興上人を除く五人が師敵対した。
しかも、弟子の序列は日昭、日朗、日興上人、日向、日頂、日持の順番であり、
やはり、外見上、最高幹部とみられている会長をはじめトップ。
それらの反逆が仏法的にも、歴史的にも明らかな仏教流布途上に於ける法則である。
先生は、シルビア・サイトウさんの戦いを通して、
不可能を可能にするお題目の力、師弟の誓いを御指導下さった。
全国に、全世界に唱題の渦が沸き起こった。
南無妙法蓮華経が死ぬ程嫌いな魔軍は慌てた。
内部からデマを流すと共に、
豆タンクのように、ズングリムックリした全国婦人部長に、次の如く、指導させた。
「皆さん!お題目は大事です!御本尊様の前で、唱えたいが時間がな~い!
そうだ!私は、動く仏壇だ!御本尊様の前に座る必要はない!」と。
尊敬するガンディー翁が、
貴方は社会活動ばかりしないで、洞窟で瞑想したらどうか!との質問に対して、
翁が、私は洞窟を背負って戦っている。と答えた事を、真似ているのであろうが、お粗末すぎる。
法華経法師品第十には、五種の修行として、受持、読、誦、解説、書写の内に、
読誦の二法については、御義口伝講義の中で先生は、
1.「 御本尊受持を根本とした上での五種の修行を論ずるならば、
2. 読( どく )とは、御本尊に向かっての唱題。
3. 誦( じゅ )とは、生活の中での不断の唱題。
4. 解説( げせつ )とは、折伏、指導。
5. 書写( しょしゃ )とは、( 中略 )御本尊書写である。
と、述べられている。
( 御義口伝講義下413頁 )
あくまでも、御本尊様の御前にての勤行唱題が、根本であり、
ムックリ婦人部長の誤指導の後に、( あ、ナンミョーながら唱題 )が一般化した。
更に、
「シルビア・サイトウは、本当は日顕宗と繋がっていた 」
「シルビアさんは、臆病で、逃げ回っていて、罰で早死にした 」
など、シルビアさんを否定する内容が、口コミでながされた。
そして、驚くべき事に、
そのデマの最初の出所は、秋谷、原田が仕切る最高会議の場で流された言うのだ。
信◯の、新◯県の婦人部長の話である。
清◯信◯婦人部長と言えば、余り知られていないが、秋谷退陣の立役者の一人である。
皆さんは、記憶しておられるであろうか?
2006年( 平成18年 )、秋谷が会長就任25年を過ぎ、6期目26年目に入った後に、
突然、会長が交代になり、原田 稔が新会長になった、不自然な会長交代劇を。
裏話などはここでは省くが、その時の立役者が青◯副会長と、信◯婦人部長であった。
しかし、双頭の悪魔は、一方の頭を落として油断すると、もう一方の頭に精神を食い破られてしまう。
あの信越のジャンヌ・ダルクかと、勘違いした婦人部長は、一方の悪魔を始末した後、
もう一方の悪魔にやられ、未だ魔の手先に落ちぶれて、毒気深入し、失本心故して、
先生を裏切っている。
この投稿を見て、先生に拾って貰った恩に報いよ、と言いたい。
彼女が落ちたのは、僅かばかりの小銭惜しさであったと、彼女を知る人は言う。
携帯電話料金の支払いを本部が止めると言う、高々月に2~3万の、小さな経済制裁だった。
副会長待遇と位置づけされていた私達、改革同盟僧侶の給料は、月に百万円、
他に5・3、11・18の創価学会記念日には、記念総会に夫婦で招待され僧侶に20万円、
夫人に10万円のお祝い金。
元旦、彼岸、盆、には、20万円の供養。東京での会合の度に10万円が支給され、
交通費、宿泊代、活動費も全て原田学会から支給されていた。
( 私は2008年に、原田らの師敵対を攻めて、2009年5月から、
一切、原田学会からの謗法の布施は受けていないが、他の坊さんは今も貰って犬になっている)
この金額は、全国副会長と同額とのこと。
全国に500人以上いる秋谷、原田のイエスマン副会長を喰わせる為には、
会員さんから、三桁、四桁の財務を絞り取らなければ運営出来ないはずである。
中には、中国方面の中心者、平間( へま )中国長のように、記念総会の前日、
新宿のホテルに、高級売春婦と宿泊。
行為中に心臓発作で倒れ、お相手をした裕美嬢が泣きながら警察に通報。
地方からの本部幹部会参加者も、同ホテル宿泊であった為、呆れた行為が、公然の事実となった。
何と、高級売春婦.裕美嬢との○○代が、一泊使用料50万として、年に5回程、計上されていたと言うのである。
会員さんは、先生に反逆する幹部の下半身処理の為に、セッセと財務をしていたのである。
それでも、平間( へま )氏は、仁義派だと評価するのは、同じ中国方面の幹部、桜林である。
「平間( へま )さんは、苦味走ったイケメンだから、女子職員や婦人部相手にすれば不自由しなかったけど、
彼は一切、素人には手を出さなかった。先生の元に、馳せ参じて亡くなった。ホンモノの弟子だ」
はぁ~?
それを聞いた仲路中道は、言葉を失った。
(平間中国長に関する内容は、小説.さらば信濃町慕情からの引用)
話が逸れたが、個人の携帯電話料金も、方面幹部クラスは、本部が負担しているようで、
信◯婦人部長が、何かで執行部と意見対立した時に、携帯電話支払いが、個人支払いになった、どうしよう。
と、真っ青になっていたそうだ。
「悪世の中の比丘は、邪智にして、心.諂曲(てんごく)に未だ得ざるをこれ得たりと謂い我慢の心充満せん・・・.
利養に貧著するが故に白衣の為に法を説いて世に恭敬せらるること六通の如くならん 」
「正法滅して後.像法の中に於て当に比丘あるべし、持律に似像して少し経を読誦し、
飲食を貪嗜して其の身を長養し袈裟を著すと雖も、猶.猟師の細めに視て徐( しずか )に行くが如く、
猫の鼠を伺うが如し 」
( 共に立正安国論21頁 )
先生が平和の手を打たれると、秋谷.八尋.原田、谷川の三馬鹿トリオ、プラス阿保1は、
目を細めて我が欲望を満足させる為に、如何に正義を忘失させんかを狙っていたのである。
最後に秋谷の一人言を紹介して、この章を終わりたい。
?俺は、池田の弟子ではない。
戸田先生の弟子である。
「英城」の名は、戸田門下第一の称号である。
?池田の教義は悉く、戸田先生の御教えに反している。
?俺は池田より、1日でも長く生きる。そして池田の反師匠の全てを、本に遺したい。
?会員の為に、職員が苦しむ?
本末転倒も甚だしい。
職員あっての会員であり、
幹部あっての平( ひら )である。
?苦労したけりゃ、自分だけすればいい。
?身内を貶( けな )して、何がたのしいのかねぇ。
?竹入だって、矢野だって、充分やったじゃないか。
文句言うなら自分で( 選挙に )出ればいい。
?ああ言う、やり方だから、誰もついてこない。
やって見せ、言って聞かせて、させて見て、誉めてやらねば、人は動かじ、だ!
?あの人は、苦労が美徳と勘違いしてる。
?板本尊返却の砌り.御守り板本尊を見て、
「本尊模刻?こんな事までやってんの?」
?山崎の「 大学出てなくても会長なれんの?」の発言を受けて、
首をかしげて、オーNO!と言うジェスチャーをする。
余りに綴ると、怒りでどうかなりそうなので、ここらで筆を置く。
最後に秋谷をよく知る人の言葉を贈り、筆を置く。
「秋谷さんの自宅の二階には、戸田先生の写真はあるけど、池田先生の写真はないんですよ。」
「東五反田のインドネシア大使館近くに、戸田邸がありますが、戸田先生の奥様や喬久さん達と、
池田先生の悪口を言われてましたね。」
「恐ろしい話ですが、フランスのオットー家で、良く学会の今後の処遇についても、指示を受けておられました。
本旨が真如苑に移ってからは、主に、太田代表を通じて竹下先生からの指示が多かったようです。」
2003年11月.
オ◯ムが、
学会の提婆達多の指示によりサ◯ン散布した際、
先生を御守りした獅子に贈られた揮毫。
(トインビー博士の言葉より)
「人格や文明が成長しつづける限り、外の戦場での
外敵の つきつける挑戦は、
ますます考慮しなくて よいようになる。
しかし、心の中の闘技場で
自分が、自分につきつける挑戦は、
ますます
考慮せねば ならなくなる」
(敵は 内部にある)
大 作
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