曇り、ギリギリで曇り。人によっては晴れと言うと思う。僕は曇りと言う。
久しぶりの友人と会う。中央線に乗っていると毎回うらやましく見えるスポットといえばどこだろうか。僕は断然市ヶ谷の釣り堀です。ということで市ヶ谷の釣り堀に行った。市ヶ谷周辺は川に沿って大学と企業ビルが並んでいる。奇っ怪な建物は少なく豆腐タイプが多くて、それはそれとして調和があってよいものだとおもう。
釣り堀は鯉を釣り上げるものだ。どうも生命力が強いイメージのある鯉は何度も捕らえられてはまた投げ返される釣り堀にいいのかもしれない。
そこそこの値段――2日分の食費くらい――を払って竿を受け取る。鯉の釣り方について看板が出ていたが、専門用語が多くてとても難しい。ぜんぜん読めない。大学で世界最高クラスのはちゃめちゃな文を読むトレーニングを受けた身でも理解できなかったので、理解できるひとはいるのだろうかなんて傲慢な心配をする。
釣り堀には人が多い。魚よりは多くない。過ごしやすい日曜日ともなると、家族連れ、カップルが席を埋めている。僕の隣には小学生男子の集団がいて、「ウキダンス」を踊って鯉を誘っていた。理屈は分からないけれど鯉が集まってくる。それを隣の小学生が網で直接すくう。パワープレイだ。宗教の起こりを見た気分になる。
何事にも熟練がある。失礼、何事は言い過ぎだ。釣り堀の釣りにも手馴れた人間がいて、おじさんがバンバン鯉を釣っている。技は見て盗むものだが、どれが技なのかわからない。流れの適切な文節化ができないものは魔法に見える。
鯉はわりと釣れる。釣り堀の魚は釣られることが死ぬことではない。そのために釣られたからと言ってそこで末代というわけでもないし、釣られたら上司に怒られるわけでもない。だからなのかコイツらは釣られることに恐怖心がない。少し恐ろしくなる。死なない人間がいたらミツバチの巣に頭を突っ込んで蜜を舐めるのだろうか? そうかもしれない。
鯉が釣れると針を鯉の口からはずす作業が発生する。これはとても厄介というか、めんどくさい仕事だ。ぬるぬるする鯉をつかんで、パクパクする口から返しの針をクリップを曲げるような手の動きで外す。鯉は暴れる。暴れるものに無理やり何かをするのは抵抗感がある。良心の叫び声が聞こえる。そこで僕はできるだけ釣らないことを決心する。
エサがくわえ込まれ、ウキが沈み込んだ瞬間に竿を上げることで鯉の口に針を引っ掛けるというのが流れだが、僕は竿を能動的に上げない。ただ流れに任せる。それでも引っかかるやつは引っかかるのだが、それはしょうがない。ぼーっとする。ときおり通る電車の音、ビル群。家族連れ、カップル。そんなものを見ながら、たまにクイクイと遊ぶようにウキが沈むのを見ている。
これは魚に接待されているようなものだ、これは魚のキャバクラだ、と友人は言う。僕は魚に遊ばれながらエサを釣り針につけては投げ入れる。クイ、クイと糸が水に張る。無言のカップルたちが黙々と魚を釣り上げている。日が落ちてくる。
何も釣り上げない釣り人になりたいなあと思って僕は竿を係員に返す。金魚釣りコーナーに幼稚園児が遊んでいる。張り紙にスマホやメガネを釣り堀に落とすとほぼ取れませんので注意と書いてある。スマホとメガネを釣り堀に投げ込んで、何も釣り上げない釣り人になりたい、そう思った。