2012年05月12日

民族としてのアイヌ

「牛」という動物がいるが、黒い牛もいれば白い牛もいる。
乳牛もいれば肉牛もいる。ホルスタインもいれば和牛もいるし水牛もいる。
それを「牛」という言葉で代表させて呼んでいるわけである。


「国家」は世界中にごまんとあるが、国家といってもいろいろである。
大きい国家もあるし、小さい国家もある。民主主義国家もあるし、独裁国家もある。
それを「国家」という言葉でくくっているのである。


人間の概念・言葉というものは、多様なものの集まりの中に何らかの共通点を見つけてくくったものである。

牛や馬、車、机・・・などなど、世の中に具体的に存在するものについてはまだ概念としてはっきりしているが、平和・社会・経済・・・などなど抽象的な概念となると、人によって解釈がさまざまになる。


たとえばある人が、とある人を指して「あの人はイケメンだ」と言ったとして、別の人は「あんなのイケメンじゃないよ」と言うかもしれない。
イケメンの「定義」となると人によってそれぞれだろう。


「民族」についてもさまざまな解釈があり、研究がある。

「アイヌ」の人たちを「アイヌ民族」と呼ぼうが、「アイヌ系日本国民」と呼ぼうが、「アイヌ人」と呼ぼうが、ともかく「アイヌ」と呼ばれる人たちがいることは誰もが否定できないだろう。実際にいるのだから。


アイヌと呼ばれる人たちがどういう存在なのかについてはさまざまな議論・変遷がある。
ある人は「人種」と言い、ある人は「民族」と言う。ある人は「部族」と言ったりする。


「民族」という言葉は漢語である。近代になって成立した概念である。
英語では、ethinc groupと呼ぶことが多い。
ethnicというのは形容詞であるが、もとはギリシャ語のἔθνος(ethnos)がもとになっている。
ethnicity(エスニシティ)という言葉もある。こちらは「民族性」と訳される。


ただnationという言葉もある。これは通常「国家」「国民」と訳されるが、「民族」と訳されることも
ある。


「民族」については、いろいろな議論があり、それについて深入りしないことにする。
特に日本語と外国語とを照らし合わせて論じると非常に複雑な問題になる。
たとえばこのウィキペディアの説明を見ても複雑な議論があることが分かる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%97%8F


小林よしのりも『わしズム』で「そもそも「民族とは何か」という定義は確立していない。「民族の不定義」という言葉もあり、学者が百人いたら定義が百個あるというほど千差万別で、融通無碍に使われるのが「民族」である。」「だから定義次第で「日本は単一民族である」とは十分言える。間違ってない。」(p19)と書いている。


「民族」の定義がさまざまであることは確かであるが、定義がさまざまだからといって、アイヌ民族が存在しないと断定するのもおかしいのである。
定義次第では、アイヌ民族はもちろん存在するのである。小林の定義がすべてではない。


小林はさらに「ネーション・ステート(nation state)のnationは「民族」である。stateは「国家・政府」である。国家を形成する「言語・文化・歴史」のポテンシャルを持っている集団を「民族」というのであって、それ以外はethnic「種族・部族」である。」(同ページ)とも書いている。

日本民族主義者であり愛国者であるはずの小林が、急に英語を持ち出して煙に巻いているのは理解できない。
nation stateというのは、日本語では「国民国家」と訳される英語である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%9B%BD%E5%AE%B6


繰り返しになるが、nationがどうだとか、stateがどうだとかそういうこむつかしい議論をここで展開するつもりはない。
ただ、形容詞であるethnicを名詞であるnation stateと対比させているのは適切ではないだろう。


「ポテンシャル(potential)」というのはもともと「潜在能力」と訳される言葉である。その人なり団体・組織が内に持っている「力量」「能力」ということであるが、要するに国家を作るだけの力がない人たちは民族ではないのだそうである。
となると、中国に占領されて国家を樹立できていないウイグルやチベットも民族ではないし、パレスチナ人やクルド人もそうだし、バスク人も民族ではないことになる。
これはかなり勝手な定義ではないか。


確かにアイヌが自分たちの国家を樹立することはなかった。
しかし、アイヌの土地であった北海道が日本国の一部になっているのは、武力を背景にした一方的な併合、要するに侵略があったからである。
(樺太・千島は、ロシアとの関係があり、戦争や2国間条約などもからむのでここでは北海道に限定して論じることにする。)
もしアイヌが和人の侵略をはねのけるだけの軍事力を持っていたならば、北海道を乗っ取られずにすんだかもしれない。
シャクシャインがだまし討ちで殺されなかったならば北海道は日本になっていなかったかもしれない。北海道はアイヌ共和国だったかもしれない。


逆に言うならば、アイヌが国家を樹立すれば、民族として認めてやるぞ、というわけか。
しかしこれは、日本国家の分裂を憎む小林にとって嬉しいことではないだろう。

その一方で、小林は『撃論ムック』にこう書いている。
「国家を形成するポテンシャルを持っている集団を「ネイション(民族)」とするなら、アイヌはやはり民族ではない。エスニック・グループ(少数民族)である。」(p11)


あれ?小林センセイ、アイヌは民族ではないのではなかったのでは?
「エスニック・グループ(少数民族と訳すのは不正確で、少数に限らず「民族集団」ということである)」だと認めたんですね。
センセイは「ポテンシャル」という言葉がお好きなようであるが、「国会を形成するポテンシャルを持っている集団」だけを民族とみなし、概念を狭くするから、話がおかしくなるのである。
こういう時に限って英語を持ち出して話をややこしくするから矛盾が出てくるのである。


世界には数百、数千の民族が存在すると言われている。
しかし、この地球上には200前後の国しか存在しない。それぞれの民族が国を持ったならば到底200では足りないはずなのである。
一つの民族のみによって成立している国家は存在しないのである。


アイヌという人たちは、日本国内に日本国民として存在する民族集団なのである。
だから、それだけを見ても日本は単一民族国家ではない。


私は何が何でもアイヌを「民族」にしたいわけではない。
そういう位置付けも可能だし、自分たちがアイヌという民族集団に属しているという帰属意識を持って生きている人が各地にいるわけである。
そしてアイヌ語やアイヌ文化を自分たちのものとして意識しているわけである。
(実際それが受け継がれているかどうかは別問題である。「同化」の問題については改めて論じたい。)


たとえば「3代前の先祖がアイヌだが、自分はアイヌだとは思ってない」という人もいる。
そういう人はアイヌとしての帰属意識は持ってないのであるから、アイヌ民族の一員であるとはみなしがたいだろう。

1972年に出版された『シンポジウム アイヌ』(北海道大学図書刊行会)という本がある。
http://hup.gr.jp/modules/zox/index.php?main_page=product_book_info&products_id=679

これは、人類学や言語学、考古学などの専門家たちが集まってアイヌの起源や位置付けについて論じた座談会をまとめたものである。河野本道も参加している。
彼はアイヌの位置付けについて、「民族といおうと人種といおうとどっちでもいいんですが、最後は「仲間意識を」を持った集団じゃないかと思うときがありますね」と述べている。


40年前の河野本道は別に民族としてのアイヌを否定していないことに注目したい。
この「仲間意識」というのが重要であると私は思う。

posted by poronup at 00:01| 北海道 ☔| Comment(0) | 民族論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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